公共貨幣による国生み 山口 薫      山口氏は、かなり特殊な歴史観をもっておられるが、その言には 多々 教えられることがある。

    以下は その取意である。

 

 天武天皇が亡くなって(686年)すぐ、689年 飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう)が出される。

そこで はじめて 大和の国を 日本という国に変え、それまで 大王(おおきみ)と呼んできた名称を天皇

に変える。現在の日本の国生みは こうして始まった。大事な変換が この時代にあったわけだ。

710年には 藤原京から平城京に遷都され、712年に 古事記が献上された。

 

  701年 大宝律令国を統治する最初の法) を定め、まず 天皇の下に、太政官と神祇官ができる。

この太政官というのは、現在の政府のような存在で、その下に 8つの省があって、今もほぼ変わらず続いて

いる組織である。

 次に 和同開珎という通貨を 日本で始めて作った。最初の交換比率は、和同開珎一文が、籾殻米六升。

平城京の建設労働者の日当が一文。平城京を建設するために労働者を雇い、その労働者の賃金として

和同開珎を作って支払ったのである。 国の建設と貨幣というのは不可分の関係にあった。

 

 しかし この 和同開珎は思ったように 流通しなかった。そこで 3年後に 蓄銭叙位の法をつくる。溜め込んだ

お金を政府に返すと位を与えるという法。 

 国の統治システム、省ができたわけだから、皆さんが位を欲しがる。 そして その位は お金で買えますよ

として、溜め込んだお金を吐き出させて 流通させるわけである。こういう工夫をして 当時の政府はお金を

流通させた。 国生みと公共貨幣は 不可分の関係にあったのである。

 

お金とはなにか

 

 

  国生みの後、貨幣が流通してくるわけである。

いつまで続いたのか、幕藩、江戸時代の終わりまで続いた。 江戸時代にはコインだけでは使い勝手が悪い

ということで、各藩が藩札を発行しました。今で言う 地域通貨である。

 

お金とはなにか

           

    これは阿波徳島藩が発行した藩札である。

  明治維新に際し、1867年 坂本龍馬と由利公正が、政府が新しいお金を発行して 国の礎を作ろうと提案し、この提案に基づいて発行されたのが、1868年に発行され、その後 13年間通用するという太政官札である。 金札とも呼ばれる。 注意すべきは、太政官という名前をつけたこと。太政官が明治を統治するんだという意気込みを込めて太政官札を発行したわけである。

 これがうまくいっていたら、明治維新は 日本の第2の国生みとなるはずだった。大王(おおきみ)から天皇へ  と変った天皇制を再度活性化して 天皇のもとで 新しい国生みをするんだという希望に燃えていたのである。 ところが不幸にも、天皇は 西洋の「キング、国王」にされてしまった。権威の象徴でしかなかった天皇が、権力をもつ欧米の国王に変わるのである。そこで 天皇制が崩れたと私は考えている。このときに、国盗りが なされたと。

 

 

※ 日本では 963年(応和3) 以降、銭の鋳造が途絶えた。 皇朝十二銭は、畿内で一部流通したが、               貨幣経済の進展とまではいかず、代わりに モノの価値をはかる尺度として、絹・布が使用された。                 絹や布がお金のかわりだったのである。

 

  その後、清盛が 日宋貿易を始めたことで、大量の宋銭が流入するようになった。

    輸入品  香薬類 (じん香・白檀香・紫檀香・薫陸香・丁子香など)、鳥獣類(おうむ・クジャク・羊・水牛・犬・猫・馬など)、

          唐織物、竹木類(紫檀・白檀・甘竹・呉竹)、書籍類、紙、硯、墨、書画、茶碗、青磁・白磁、豹や虎の皮、茶

    輸出品  砂金、銀、硫黄、水銀、木材(ヒノキや杉などの木材を角材や板に加工)、工芸品(螺鈿・蒔絵・屏風・大和絵・

          扇子・彫金・銅器など)、 武器類

   ※ 宋銭は、や西夏、日本、東アジア諸国でも使用され、遠くは、ペルシャやアフリカ方面にもおよび、ほぼ全アジアで

      流通したため、当時の経済状況に多大な影響をおよぼした。これは当時の中国王朝の政治力を物語る。

      南遷すると宋王朝では経費が嵩む銅銭の鋳造が減り、紙幣を発行し銀と共に取引に使用されるようになった。

 

      日本で 宋銭の流通が本格化したのは、12世紀後半。当時は末法思想の流行で仏具の材料として 銅の需要が高まり、

    宋銭 (1文銭)を銅の材料として輸入していた。   時の権力者の平清盛(1118~81)は これに目つけ、日宋貿易を振興して

  から大量の宋銭を輸入して 国内で流通させ 平氏政権の財政的な裏付けとした。 

    一方、当時の朝廷の財政は  絹を基準として 賦課・支出を行う仕組みとなっていた。 これは皇朝十二銭の廃絶後、

  それまでは価格統制の法令として機能してきた沽価法による価格換算に基づいて算出された代用貨幣である 絹の量を元

  にして、一国平均役諸国所課成功などを課し、また 沽価法に基づいた 絹 と 他の物資の換算に基づいて支出の見通しを

  作成していた( 勿論、実際の賦課・収入は現実の価格の動向なども加味されて決定される )。そのため、宋銭の流通によって

  絹の貨幣としての価値(購買力)が低下すると、絹の沽価を基準として見通しを作成し、運営していた朝廷財政に深刻な影響

  を与える可能性があった。

   宋銭を流通させようとする平家と、これに反対する後白河法皇の確執が深まった検索に移動治承3年(1179)、法皇の意を受けた

  松殿基房九条兼実が「 宋銭は 朝廷で発行した貨幣ではなく、私鋳銭(贋金)と同じである 」として、宋銭流通を禁ずるように

  主張したものの、逆に 清盛や高倉天皇土御門通親らが むしろ現状を受け入れて流通を公認すべきであると唱えて対立し、

  この年、平清盛は後白河法皇を幽閉する。

  平家滅亡後の文治3年(1187)、三河源範頼の意見という形で 摂政・九条兼実が流通停止を命令される。

   だが、この頃には、朝廷内部にも 絹から宋銭に財政運営の要を切り替えるべきだという意見があり、建久3年(1192)には 

  宋銭の沽価を定めた「銭直法」が制定されたものの反対意見も根強く、建久4年(1193) には伊勢神宮宇佐神宮の遷宮工事

  の際に必要となる役夫工米などの見通しを確実なものにするために改めて「宋銭停止令」が出された。

   だが、鎌倉時代に入って その流通はますます加速して、市場における絹の価格低下は止まらなかった。また、朝廷や幕府

  の内部においても、実際の賦課や成功の納付や物資の調達の分野において、現実において 絹よりも利便性の高い宋銭で

  行われるようになっていった。 こうして、宋銭禁止の最大の理由であった絹による財政運営の構造そのものが 過去のもの

  となっていった。 嘉禄2年(1226年)に鎌倉幕府が、その4年後には 朝廷が旧来の政策を改めて公式に宋銭の使用を認めた。

  仁治3年(1242年)、西園寺公経が 宋に派遣した貿易船は10万貫の銭貨を持ち帰ったという風説があった。

 

   室町時代においては、永楽通宝が広く用いられた東国と違い、機内や西国では 永楽通宝に代表される明銭が、宋銭より

  大きくて使い勝手が良くないことや 新し過ぎて 私鋳銭との区別が付かないとみなされ、明銭が嫌われ宋銭が重んじられた。

          文明15年(1483)の遣明使の北京入りに同行した金渓梵鐸が 帰国後の報告の中で、北京で 明政府が明銭で日本商品

    を購入したところ、遣明使側は 旧銭(宋銭)での支払を求めて トラブルになったとしている。 

     室町幕府による最初の撰銭令と言われている明応9年(1500)10月の追加法に根本渡唐銭は 古銭同様に通用させることを

    命じた規定がある。この根本渡唐銭には 「永楽・洪武宣徳」と割注が付けられていることから正規の明銭のことであると

    考えられ、これに対して 古銭は 宋銭のことであると考えられることから、当時の京都 および その周辺では宋銭が重んじられ、

    明銭は撰銭の対象になっていた可能性すらあったと考えられている。

   日本で流通した宋銭は、南宋銭よりも 北宋銭の方が圧倒的に多い。また 日本では基本的に小平銭が使われ、折二銭など

   の高額銭が日本で使われたことはなかった。

 

 

                               (続)