「花」といえば、わが国では 「さくら」である。
歌川広重「浪花名所図会 安井天神山花見」(1834年頃作)。
踊りに興じる花見客。 花見弁当に酒、三味線も見える。
いつ頃から はな = さくら になったのだろう。
Wikipediaによれば、
わが国の花見は、
奈良時代の貴族の行事が起源だとされ、
当時 中国から伝来した「梅」が鑑賞されていたが、平安時代に 「桜」に代わってきた。
※ 『万葉集』には 桜を詠んだ歌が 43首、梅を詠んだ歌が 110首程度。
10世紀初期 『古今和歌集』では、桜が 70首に対し 梅が18首と逆転している。
「花」が 桜の別称となり、女性の美貌が桜に例えられるようになるのも この頃から。
※ 812年3月28日(弘仁3年2月12日) 嵯峨天皇が神泉苑で「花宴の節(せち)」を催した。
時期的に花は桜が主役であったと思われ、これが記録に残る花見の初出とされる。
前年に嵯峨天皇は地主神社の桜を非常に気に入り、以降神社から毎年桜を献上させたといい、
当時、桜の花見は貴族の間で急速に広まり、これが日本人の桜好きの原点と見られる。
※ 831年(天長8年)から 宮中で天皇主催の定例行事として取り入れられた。
その様子は『源氏物語』「花宴(はなのえん)」にも描かれている。
※ 日本最古の庭園書・『作庭記』(11世紀後半成立か?)に「庭には花(桜)の木を植えるべし」
とあり、平安時代において桜は庭作りの必需品となり、花見の名所である京都・東山も
この頃に誕生したと考えられている。
※ 古今和歌集(905年):「 み吉野の 山べにさける桜花 雪かとのみぞ あやまたれける 」紀友則
平安期に修験道が発達するにつれ、開祖・役小角の奉じた蔵王権現の神木として桜が尊重された
ことから、吉野山の桜が徐々に名を上げ、
歌にも詠まれるようになった。
「 吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねむ 」西行 (1118 ~ 90)
武士の時代となった鎌倉時代以降には、
貴族の花見の風習が 武士階級にも広がった。
吉田兼好(13C~14C)は、身分のある人の花見 と「片田舎の人」の花見の違いを、
『徒然草』第137段に、「片田舎の人のわざとらしい風流振りや騒がしい祝宴」に対し
冷ややかな視線で書いている。
太閤秀吉は、1594年(文禄3年)吉野の花見(5000名ほど)を、
さらに98年(慶長3年)、その死の数カ月前、贅を尽くした醍醐の花見を催した。
花見の風習が広く庶民に広まっていったのは 江戸時代からとされる。
桜の品種改良もこの頃盛んに行なわれた。
江戸城下・近郊の花見の名所は
上野寛永寺、飛鳥山、隅田川堤。他に、御殿山(品川区)、愛宕山、玉川上水など。
歌川国貞「六条御所花之夕宴」(1855年作)
楊洲周延「千代田大奥 御花見」(1894年作)。大奥の女性たちの花見。