八ヶ岳 随筆 亀盲帖 -3ページ目

八ヶ岳 随筆 亀盲帖

曲草閑人のブログ

 先日、深夜に何気なくテレビをつけたら、番組欄に『フランク・シナトラ・ライヴ・イン・武道館』というのを見つけた。約1時間のBSのNHKの番組だった。シナトラか~、珍しいものをやるなあ。今の若い子達はシナトラなんて名前も知らないだろうになあ。

 

  フランク・シナトラ(1915-1998)とは、アメリカのエンターティナーであり、ポピュラー歌手であり、ジャズ歌手であり、俳優である。ビング・クロスビー、エルヴィス・プレスリー、マイケル・ジャクソンなどと並び、20世紀アメリカを代表する伝説的なエンターテイナーの一人。

 

 自分はシナトラのレコードを2枚持っているが、特別ファンということもなく、思い入れもそれほどない。シナトラのイメージは、「母が好きだったイケメン歌手で映画俳優のスター」というのが一番に出てくるくらいだ。だから、どうしても見たいというものでもなかったが、他に見るべき番組も無し。ちょっとだけ見てみようかなという気になり、放送時刻にチャンネルを合わせた。

 

 1985年、シナトラが70歳のときの日本武道館でのライヴだった。番組が始まり、そのオープニングの映像を見て、かなり驚いた。フランク・シナトラともなれば、それなりの派手派手しい舞台装置の演出があるのだろうと想像していたのだが、武道館の中央に何の変哲もない真四角のステージが作られているだけ。舞台のセットや飾りなどの演出らしいものが一切無い。何も無い、ただ白い正方形の舞台。ステージの片側下にオーケストラ・ピットがあるのみ。えっ!? コレが舞台? そこへスポットライトに照らされた、蝶ネクタイ姿のシナトラが、金色のマイクを持って登場する。そして、挨拶もそこそこに、いきなり歌い出した。

 

 

 

 

 その歌は・・・、流石!やっぱり上手い。世界的なシンガーであり、伝説的スターであり、上手いなんて表現は失礼だが、その歌声に圧倒され、う~ん、やっぱり上手いなあ~、と一人呟いてしまった。年を取ったシナトラは、若いころに比べるとずいぶん太ってはいるが、余裕に満ち溢れている。シンプルな白い四角の上で、その存在感が凄い。なるほど、納得。シナトラがそこで歌えば、舞台の演出なんて無用なのだ。

 

 

 

 かつてキング・クリムゾンのリーダーであるロバート・フリップは、
「俺たちキング・クリムゾンのステージには、裸電球一つで十分だ。他に演出は何もいらない」

と言い放った。まさに、この言葉通りのような舞台が画面の中にあった。ただし、シナトラの場合、ライティングの演出は多少あったが。

 

 

 歌と歌の間には、今歌った曲や次に歌う曲についてのお喋りが入る。当然英語で喋るのだが、字幕が出るので何をいっているのかはわかる。その話の中で、シナトラがかつて一緒にやったメンツの名前が出てくるのだが、これがまた凄かった。ジョージ・ガーシュウィン、ハリー・ジェイムス、ベニー・グッドマン、サミー・デイヴィスJr、ルイ・アームストロング、クインシー・ジョーンズ、アントニオ・カルロス・ジョビンなどなど、錚々たる名前ばかりだ。

 

  他に見る番組が無いから、何気に見てみようかなと思い、見始めたライブに魅了されてしまい、結局1時間ちょっとの番組を最後まで全部見てしまった。見終っての感想は、見て良かった。若かれし頃はイマイチ良さがわからなかったのだが、この年になり、様々な音楽を聞き込み、多くの経験値を積んで来て、やっとこの凄さが理解できるようになったのだなあと、しみじみ。

 

 

 さっそく、自分のもっているフランク・シナトラのLPレコードを膨大なレコード・コレクションから探し出す。

 

 

 プレーヤーにセットして針を落とす。何年ぶり、いや何十年ぶりに掛けたかわからない。テレビでこのライヴを見なかったら、わざわざシナトラのレコードを探し出して掛けることは、おそらくこの先も無かったであろう。


 改めてじっくり聞いてみて、何故か得意気な気持ちになる。うん、我ながら、いいレコードを持ってるじゃないか、と。

 

 

 フランク・シナトラ、再発見の夜。

 

 

 

 

 梅雨入りから夏の始まり頃、タチアオイが綺麗に咲き始める。

照りつける太陽のもとで、タチアオイが元気いっぱいに咲き誇っているのを見ると、ある人を思い出す。

 

 

 塚本老人。

自分が今池でやっていたBar「OZNU」(小角堂)の常連さん。

 

 OZNUは常連客の平均年齢が50歳くらいで、大人の店だった。

その中でもトップレベルに高齢だったのが、塚本さんだった。

80歳近かったと思うが、オシャレでカッコイイ老人で、背が高く、ガッシリした体格で、姿勢も良い。

職業はプロ・カメラマン。写真集も出版されている。現役で文化教室の写真術の講師も務めていた。

 

 店での呑み方も実にスマート。静かにカウンターに座り、いつもウイスキイを吞む。

スタッフの動きをそれとなく見ていて、キリがついたと思うタイミングで、

「マスター、落ち着いたんなら、スタッフの子達と一杯づつやって」

と必ず御馳走してくれたものだ。そして、しばらく我々と会話を楽しむと、

「んじゃあ、ごちそうさん!」

と、サッと帰って行く。その潔い去り方もカッコよかった。

ウチのスタッフの子達にも、超人気の常連さんだった。

 

 そんな塚本じいちゃんは、いつも明るく元気なのだが、実は癌だった。

しかし、癌を患っているとは思えないほど、普通に、たっぷり呑んで、いっぱい喋る。

 

 ある日、塚本じいちゃんは、自分の作品である1枚の写真パネルを店に持って来た。

「マスター、これはわしの自慢の作品のひとつだ。よかったらわしの形見として店に飾ってくれ」

それが、タチアオイの写真だった。

入道雲の夏空をバックにタチアオイが咲き乱れ、はるか遠くに茅葺屋根の古民家がチラリと写っている。

実に素晴らしい作品。お世辞抜きで、この人は本物だ、と思った。

 

 

(※これは塚本老人の作品ではなく、自分が撮影したもの)

 

 

 だから、この時期、道でタチアオイを見ると必ず思い出すのは、塚本じいちゃんなのだ。

八ヶ岳山麓でも、彼方此方でタチアオイが咲き始めている。

八ヶ岳や南アルプス、富士山などの山々をバックにしたタチアオイは実に絵になる。

 

 

 <タチアオイの後ろに広がる田園と、うっすら浮かぶ富士山>

 

 

 また、塚本じいちゃんは、ジャズ・マニアだった。

ジャズについての知識は計り知れないほどで、何でも知っていた。

ウチの店OZNUを気に入ってくれたのは、マスターである自分と意気投合したという事もあるが、ウチがレコード・プレーヤーでジャズのレコードを掛けていたというのも、気に入られた大きな要因である。

 

 塚本じいちゃんのジャズ・レコードのコレクションは凄まじく、持ってないものは無いと豪語するほど。更に、同じアルバムでも、ジャケット違いとか、レーベル違いとか、プレス違いとかまで揃え、複数枚持っているという有様。

ある晩、

「マスター、持っていないレコードで、欲しいものがあれば言って。ものによってはプレゼントするよ」

と言ってくれた。

自分はその時、遠慮なく

「もし可能なら、エリック・ドルフィーのアルバムが欲しいな」

と、前から欲しかったものを言ってみた。すると、

「エリック・ドルフィー? まーたマニアックなこと言うねえ。流石マスターだ。気に入った」

と喜んでくれて、次の来店の時に、本当にエリック・ドルフィーのレコード持って来てプレゼントしてくれたのだ。

 

 

 <塚本さんに最初に戴いたエリック・ドルフィーのレコード>

 

 

 それからも、機会あるごとに何枚ものレコードをOZNUに寄付してくれた。

「自宅で一人で聞くより、この店の素晴らしい音響で、マスター達と一緒に楽しみたいんだよ」

 

 塚本じいちゃんは一人暮らしだった。ノラ猫たちを可愛がって暮らしていた。

OZNUを閉めて、お別れしてからお会いしていない。

最後にお会いした時には、癌がかなり進行していたようだった。

 

 

 

 

 塚本老人。

夏の始まりのタチアオイと、ウイスキイを吞みながら聞くエリック・ドルフィーで思い出す人。

カッコイイじいちゃんだったなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誕生日を迎えた。いよいよ、還暦まで秒読みに入ったのだ。これはイカン!なんとかしなくては!タイマーの数字は目まぐるしく減り続けている。ああ、早く起爆装置を解除して時間を止めねば!

 

 この年になると誕生日は目出度いのかどうかわからなくなってくる。でも、まあ年一回の特別な日である。とりあえず、疲れを癒しにお気に入りの温泉に入って、ホコホコになった。

 

 

 その足で、まだ体から湯気があがっている状態で、生ビールを飲みに行く。よーこが馴染みの居酒屋「松葉」でお祝いをしてくれたのだ。前稿で紹介した、小淵沢駅前にある、唯一の居酒屋「松葉」。

 

   

 

 相変わらずオイシクて、ゴキゲン。風呂上がりの体の隅々まで、キンキンに冷えたビールが染み渡る。

 

   

 

 さんざん呑んで、満腹して、千鳥足で帰宅。

家に帰り、何気にテレビをつけた。

酔眼のまま、チャンネルをポチポチとかえる。

ん? なんだコレ。時代劇? 

なんか、えらく古そうな感じだなあ。

えーと、何やってんだろう。

どれどれ・・・

 

と、番組表を見て、おどろいたー!

「大魔神」

え!うそー!キャー!

酔いが一気に醒める。

 

よーこはパニクッったのか、なぜか慌ててテレビの画面を写真に撮り始めた。

かなり酔っぱらっていたよーこは、本当に大魔神が来たと思ったのかも知れない。

(よーこが撮った写真 ↓ )

 

 

 

 

 

 自分も他人事ではなく、酔眼だった目はバッキバキに冴えた。

「大魔神」という映画は、数ある特撮映画の中でも、自分にとっては特別な映画なのだ。

 

 幼少の頃、確か7歳とか8歳の頃、今は亡き兄と一緒にうつ伏せに布団に入って、二人寄り添って頭だけ出して、ドキドキしながら恐々見た映画だ。あまりの恐ろしさに、映画を観終った後、その夜は朝まで一睡も出来なかったことをよく覚えている。自分が映画好きになった切っ掛けの映画は数本あるが、この「大魔神」はその中のトップクラスの一本なのだ。

 

 え、こんなゴールデン・タイムに普通にテレビで「大魔神」やるなんて、信じられない。

きっと、これは誕生日プレゼントだろう。自分史の中で非常に重要な位置を占める映画が、誕生日に放映されたのだ。しかも酔っぱらって帰って、偶然にテレビをつけ何となくチャンネルを変えたら大魔神、というのは、やはり偶然ではない。

 

 よし!これは、天国の亡き兄から、可愛い弟への誕生日プレゼントだったということにしよう!

そういうことにすれば感動的なエピソードになるじゃない。

 

   

 

 温泉に入って、居酒屋で生ビール飲んで、美味しいもの食べて、自分史の1ページの「大魔神」を観れて・・・

うん、最高の誕生日だったなあ。

後は、起爆装置を解除すれば、完璧だな。

 

< もちろん、サントラのレコード盤は持ってまっせ!>