今年の境界線はじめ。 | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.

 

 朝一で新春一発目業務のソリューションをして、後はPC引っ越しの続き。だいぶ慣れてきたが、やはり反応が遅い。ノートの方がテキパキしていた。けれど今更後戻りはできない。俺はもう新旧の境界線を越えてしまったのだ、ただ明日を信じて、前へ進むしかない。
 とか思いつつ、いろいろプチプチやっていたが、どうにも使いにくい。やはりぺったんこのせいだろうか。
 一つ良いことはあり、机上に手書き空間が広がったことである。ノートの時は機材配置の都合から机上にA4の紙をおいて手書きするスペースがとれなかったが、ぺったんこPCのおかげで可能になった。ということは、私にもっと手書きしろという神の啓示が下されたのではないか、とも思う。神様は下してねーよと仰有る気がするが、下されたのである。
 パソコンを使い出してからめっきり文字が書けなくなり、十数年前くらいだったか忘れたが、某専門学校で教鞭みたいなことを取るふりをして白板に「林」という字を書こうとしたら、どうにも思い出せず平仮名で「はやし」と記し生徒の皆さんから大爆笑されたことがあった。今なら「一」という漢字すら思い出せないのではないか、と危惧される。
 

 しかし、バカにしてはいけない。
 私は「醤油」という字は、いつも漢字で書いている。あなたは、「醤油」という漢字を今この場でさらさらと書けるだろうか?私は、書ける。断言しておこう、断じて、書けるのだッと。
 だからなんだとお思いの方もあると思うけど、お料理のレシピを考案するに当たり、醤油という漢字が書けるということのアドバンテージは絶大なのである。平仮名だと四つも字を書かなければならないが、漢字ならたった二つですむ。画数は漢字の方が多い気がするけれど、絶対数は断固として少ないのである。
 もちろん、「酢」という漢字も書ける。よって、「酢醤油」という三文字に及ぶ難解な漢字も書けるわけだ。酢が書けるおかげで、私は「酢豚」という漢字もすらすらと書ける。なぜならば、「豚」という漢字も書けるからだ。
 さて、そろそろ勘のいい人は気がついただろうか。
 そうである。ピンポーン。今夜の晩ご飯は酢豚にしたのである。証拠写真は撮らなかったが、美味かった。
 

 

 私が三十歳くらいまで、代筆屋の間では手書きが主流だった。手を見れば、きっとペンだこがあった。私のはかなり薄れてきたが、まだそれっぽい隆起がある。ペンだこと二日酔いと腱鞘炎がわれわれのアイデンティティーだったと言えなくもない。
 それが、フロッピーでデータ入稿などするようになり、ペンだこたちは瞬く間に姿を消していった。われわれはおかげでずいぶん楽になった。ペンだこなど消えてしまえと思っていた。蛸焼きになれもしないくせに蛸を名乗るなど失敬千万、不埒きわまりない。とっとと消えてしまえッと思っていた。いや、そんなに具体的に思いはしなかったけど、キーをプチプチする方が断然楽なので、われわれは2Bの鉛筆と原稿用紙を捨て、デジタルに走った。たぶん、私世代は、パソコン普及と足並みをそろえて動いてきたはずだから、その辺の状況がよくわかる。特に私は高校生の頃から数学の先生を唆しコンピュータ部を作ってシャープ製のでっかいのを弄り機械語プログラムとかやって遊び、結局ちんぷんかんぷんで音を上げドロップアウトしたが、コンピュータ時代にもの凄く期待していた一人である。
 けれど、昨今のデジタル社会を眺めると、想像していたのとはだいぶ違う気がしてならない。
 コンピュータのおかげで生活は画期的と言って良いほど便利になった。余計なことを考えなければ料理だって電子レンジ一つですむし、掃除もしなくて良いくらいになりつつある。あらゆる家電のややこしい設定も無用だし、近頃では遠く離れたお父さんにコーヒーを飲ませようとスマホでドリップマシンに指令を発して同じタイミングで一緒にコーヒーが飲めてすっごく良いのなんて宣伝までしていて唖然とする。んなもの、自分が好きなときに淹れるんだからほっとけよっと。
 

 手書き時代だとなかなかこうはいかない。お父さんがコーヒーを飲みたいと強請っても、手書きで忙しい娘は相手している暇などない。勝手に淹れてろッ、ボケッとなる。
 一見冷たいことのようだけど、淹れたくない娘にとっては自由が尊重されるわけで、甘えん坊のお父さんにしても甘えちゃダメッという教訓的現実を知らしめる効果もあり、まんざら悪い状況ともいえない。娘は忙しそうだからと観念し、渋々自分でインスタントコーヒーに湯を注ぐかもしれない。
 こういうのはバカバカしいバーチャル素描に過ぎないが、一面の真実を写し出している。
 お父さんは、何故に、娘にコーヒーを入れてもらって当然と思うのか?
 という点が、問題の核心だろうか。
 昭和以前のお父さんたちは当たり前のことだったかもしれないが、家族という小社会の単位の外郭が崩壊しだしてから、それは当たり前のことではなくなった。
 社会における『当たり前』という尺度が、いささかズレたのだろう。ちょうど、今の地球みたいに。
 この世に完璧に確立された不動の尺度などないので、そんなことはいくらでもあり得る。地球が適当に傾き、いつの間にか日本列島を赤道が縦断していたとしても不思議ではないし、お父さんが娘に指図されてコーヒーを淹れたところでなんとも思わない。そういう時代になったんだなぁ、と思うくらいか。
 

 今の時代は、かつての本末とか主客というものが転倒しだした時代で、眺めているとなかなか面白い。まだ序章のようだけど、たぶんあと十年くらいで第一章が始まるのかなと感じる。本編に入る頃、私は六十七か六十八歳、公的に認められる立派な高齢者になっているかな。年金を受給しつつ、まだ労働している。住宅ローンが残っているから、七十三歳までは何かして借金返済し続けなければならない。それが終わると、いよいよわが老後が始まる。が、国民年金で貰えるのは月に六万くらいだから、やはり何かやって小遣い稼ぎしたい。今のところ最有力候補は武術で、できる人がほとんどいない技ができるから結構お得だろう。次の候補は日本語作文指導。これも意外に需要があるだろうし、作家ではないけれどプロなので実績もあり有力といえる。他にもいろいろある。DIYとか料理をネタにできなくもないし、素人相手の詐欺的手口ならいくらでもありそうな気がする。
 なにしろ、軽い時代で、手に技などつけなくても金を稼ぎさえすれば何でもIT技術がやってくれるから、なにも苦労して技を磨く必要なんてない。醤油なんて漢字が書ける必要はないし、まして酢なんて書けたところで何の意味もない。
 現代はそういう快適な時代なのである。
 とか、新しいパソコンを弄りつつ思うのだった。
 ま、漢検とかが人気らしいから、うすうす危機感が芽生えているのだろうと思うけど、朝日が主導するその系はちょっと頼りない感じもあり、なんだかなぁと感じたり。検定だのは関係なく、己の内から沸々と湧き出る危機感こそが必要な時代という気がする。
 他から知らされるのではなく、自ら気がつく。ということが。
 これが肝だろう、変革のエネルギー源として。
 これなしには、なにも起こらない。
 自覚こそが真の境界線を可視化させ得るというか、合気っぽい感じかな。