続和術ステートメント。 | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 しつこく和術の続き。楽体から和術に変わってしまった点を自分なりに考え直しておきたいので、少し過去を振り返りつつ記録したいかな、と。今夜も長くなるだろうから一曲。小春日っぽかったのでアロハにしよう。



 固着の発見から、合気道という武道に向ける目線が、がらりと変化した。
 もっとも強く思ったのは、呼吸法(合気上げ)と呼ばれる技は、どうも勘違いされているのではないか?ということ。

 娘たちに合気道をさせる前に初心者講習会というのに参加したが、その時、私も紛れこみ、態度のでかい武道家ぶったオヤジに相手してもらった。
 その際、合気上げというのをやらされた。
 二人相対して正座し、一方が一方の両手首辺りを掴み、掴まれた方(仕手)はその手を上げるのだと教えられた。元気なオヤジは私に「ちょっとは力ありそうだな、やってみろ」と偉そうに指示した。オヤジはグッと力一杯押さえ込もうとしたが、私の方が腕力があったのでグリグリ上がってしまい、オヤジは「エッ、エッ、オッ、アァ~」とか呻って目を白黒させた。
 私は意地悪なので「あなたがやってみな」と奨めて受けに替わり、押さえ込んだらビクともしなかった。敗北を認めざるを得ないオヤジは、「あなた、うちにいらっしゃいよ」とスカウトに転じた。
 呆れた、というのが正直な感想。
 掴まれた手が上げられるか否かというのは、普通に考えれば、相手より腕力が強ければ誰だって簡単に上げられる。そんなことに技など要らない。筋力で事足りる。

 合気道の型には、片手や両手を掴まれたところから何らかの技に持ちこむものも多いが、これが実際にできる人はあまり多くないのではないかと感じる。例えば片手をがっと掴まれて、その状態から相手の腕を迫り上げられなければ、関節技には持ちこめない。入り身すら不可能だろう。
 ただ腕力と前身する力で手を上げられたにしても、実戦を思えば、相手が掴む手は次の攻撃のためのものであって、反対の手は出せるし足も使える、という状態では「技」とは言えない。
 掴まれた手を迫り上げる動作には、「反対の手が使いにくくなり」「足も使いにくくなる」という条件が同時に満たされなければ意味はない。そのためには「浮き」や体重の操作が要る。
 こう言うところを考えずに型稽古をしてもなんの意味もないと私的には思い続けてきた。
 ぼちぼちと探ってきた限り、日本古来の「柔」と呼ばれた系統のものや「合気」という「技」は、人体と心理のやるせない法則を見抜いたものらしいと感じるようになった。
 象徴的な例を示すなら、相手の体が浮いた状態は、電車の揺れに体バランスを崩し爪先立ってふんばっている状態と酷似しているというような点。それは、意図して発生する状態ではなく、無自覚に陥ってしまう、自分ではどうしようもない状態だが、「合気」という「技」はそんな状態を意図的に創出し得たものだったのだろうと想像している。実は確信しているが、やはり私は「合気」を知らないので想像の域を出るわけにはいかない。

 合気道の演武などでは、広い畳の上でくるくる円転して動き、さまざまな技を施す光景が多い。受けが派手にひっくり返ったり飛んだりするのは演技のひとつ。受身も技として見ているようなので、それはそれで良い。華やかに見えるし。
 しかし、あの派手な動きに疑問を感じないのはおかしいとしか思えない。
 例えば、相手の突きや打ちこみを体を回してさらりと捌き、次いで攻めに転じ、さらに大きくグルンと回って相手を投げ飛ばしたり絞めたりする型などは、どうだろう。あの初動の捌きは、多くの場合、相手の攻めのタイミングを捉えて崩すと諒解されている気がするが、そんな体捌きは広々した場所でなければできないのではないか。護身術と信じている人は、その手の動作を人混みや狭い通路などでも、何時でも何処でもできると思っているのだとしたなら不思議なことだ。無理に決まっているのだから。
 そう考えれば、あのような捌きは実は極めて小さいものであるのが本来ではないか、と考えざるを得ない。これが、楽体で「体捌かれ」と呼んできた技の概念を形成した。

 体捌かれは、しかし、固着体ありきで有効に作用する。
 固着体は、間合いをコントロールする技術とも言える。相手との間を固定した棒で結び、相手に動かしてもらうなら、一定の間合いが保たれたまま移動することになる。ごく単純な物理に過ぎない。護身というのは、攻撃を受けない間合いを保つのが最善。さらに衝突を避ける方が確実になる。言葉では表現してもわからないだろうが、常に相手の攻撃が届かない間を確保するのがベストだろうということ。それを実現するには、今のところ固着体の感覚がないと不可能と言って良い。
 これは、自体を無機物のようにするかなり難しい技術だが、そうであるべきだろう。
 外に見える動作は小さいが、体の中の感覚は激動している。精妙な感覚を要するらしい。

 楽体は体のメカニズムをなるべく物理的に見ようと試みを続けてきたが、和術は感覚領域になった。
 これは私的には画期的な変化と感じている。だから呼称を変えて遊んだりするのだが、「合気」と付された武道なり武術なりをやる人が、楽体や和術で記してきたような面に着目して、相手の腕を上げるばかりではなく、相手の体を浮かすには筋力はほとんど要らないこと、崩しは体幹近くの攻防だと言うこと、それらを実現するには関節部の固着が必須であること、また体重心が見えてくると体は捌かれてしまうこと、などなどをちょっと気にして一人でも多く稽古してくれることを願うばかり。
 もっとも武道も人それぞれ好き好きだが、不思議な技はやはりあったのだ、と私はいよいよ確信を深めている。その解明は、人間の動作エネルギーを画期的に変えてしまうくらいの大変革を可能にするし、特に高齢期の体に楽をもたらすのではないかと感じる。
 長くなったが、もうひとつ。
 昔の平均寿命は短くて五十代だったろうか。今は三十年くらいも伸びたと言われているが、昔は殺人が日常茶飯だったので短くて当たり前だろう。が、歴史上の人物を見ていると、意外に長寿の人も多い。武士は短めだが、宗教者や文化人などはけっこう長寿だったのではないか。庶民にもかなり長寿の人がいたと思う。なにしろ卒寿、白寿、紀寿などという呼び方もあったくらいだから、90歳、100歳という人もいただろう。
 想像に過ぎないが、昔のご老人は今日よりも元気だったのではないかと感じる。あくまで「柔」を生みだし得た国という前提に立っての空想だが。
 今日の寿命というのは、医療が発達したし衛生面も明治以前とは比べものにならないほど徹底されたお陰だろうけれど、生命の質としてはどうなのだろう、と考えてしまう。嫌な言い方になってしまうが、死んでいないから生きているとカウントされるのが幸せなことなのかどうか。
 私の目標は、超後期高齢期も自分の足で真っ直ぐ立ち、重力を利用してトコトコ散歩すること。そして170歳くらいまで生きて、人々からうさん臭い目で眺められること。ま、不健康な嗜好なのでそこまでは行けないだろうけど、せめて80過ぎてトコトコ散歩したい。ローン地獄に押し潰されないことを祈るばかりだが。