クレヨン画。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 画用紙に描かれた一枚のクレヨン画があった。
 三十代の頃に紛失してしまったが、確か四十五年前に描かれたものだった。
 真っ青な空の下に、中が斑な黄土色の楕円形に空いている、緑色の分厚いドーナッツのような絵。
 小学一年生の夏休みの終わり、家の裏山の、頂近い野原で描いた記憶が残っている。



 まるで初めてクレヨンを手にしたような稚拙な風景画は、淡いけれど鮮烈な印象を宿して、古代の壁画のように脳裏に貼りついている。
 確かに裏山の頂き近い原から俯瞰すれば、そんな風景だった。気ままに空を浮遊する烏や鶫や雀たちは、いつもそんな緑のドーナッツを見ていたに違いない。

 小学一年生の私は、汗を滴らせて、その風景を眺めていたのだろう。
 私が生まれた町は三方を鬱蒼とした森林に閉ざされ、森林が切れた一方は開けた田園地帯になっていた。正確にはC型のドーナッツ。だからドーナッツのほとんどを、緑色で塗りたくったに違いない。きっとエメラルド色にしたかった気がする、けれど、塗りたい緑色がクレヨンセットになかったので、黄緑と緑と深緑という3つの緑色を使ったはず。まだ青や黄を乗せる知恵はなかっただろう。

 牛の記録をしたときちょっと勘違いされた気がするが、私の生まれ故郷は、宮城県栗原郡鶯沢町の細倉という鉱山町。
 ドーナッツの中心が黄土色なのは、そこで人々が生活していたから。
 こんもりした緑の帯も細倉の町。面積のほとんどが緑であり、ほんの一部が黄土色だった。黄土色のおよそ三分の一は鉱山で、三分の一は鉱山が排出した屑の山。残りの三分の一に人々が暮らしを営む。そんなバランスだったろうか。
 町の東端に木造の、質素だけれど端正な造りの駅舎があった。駅名も細倉といい、その鉄道の終点だった。東北線の小駅から幾つもの田園や川を渡り山を貫いて単線が続いていた。
 レールは町の東に立ち塞がる金田森の腹を串刺しして町に入り、終着駅なのに駅舎を突き抜けて、西の方の鉱山へと延びていた。
 クレヨン画には、赤いのたくる線と、歪んだ箱で描かれていた気がする。
 山奥の小さな町を世間に接続する動脈だったが、数年前に廃線になった。

 駅舎の西方に、黒や黄色や灰色をした鉱山の排出物の小山が、ぽつぽつ点在していた。
 町の男たちは山に穴を穿ち春の蟻のように潜りこみ、変朽安山岩や流紋岩や凝灰岩を砕いて運びだし、方鉛鉱、閃亜鉛鉱、黄鉄鉱、黄銅鉱や銀、それにきらきら光る石英だの方解石だのカオリンだの雲母だのを分別し、後の屑は鉱山の外れにせっせと山と積んでいった。
 神武景気と呼ばれた時代で、屑山はどんどん堆くなった。

 駅舎から西を見渡すと、人々の生活域はまったく廃墟のようだった。
 しかし、荒廃したような姿は、町の豊かさの象徴だった。
 栄えていればこそ、風景は荒む。
 鉱山町の屑山は、都会の経済力を主張する高層ビルのようなものだろう。


 ネットを眺めていて、故郷の夜景に巡りあった。

$新・境界線型録-細倉夜景


 無断で使わせていただいたが、壁紙としてサービスしてくださっていたから、良いだろう。


 江戸時代から鉱山として開発された町は、戦後の経済復興に乗って急速に栄え、坑道を延ばすと共に森や田畑を潰し宅地にしていったが、開発を免れた森は、町の発展と逆行して原始の姿に還っていったに違いない。
 西は大土ヶ森、石ヶ森、東は栗駒山に連なる山々に囲まれている。ひとつひとつは小さな山だけれど、なだらかな姿を重ねあわせ密度を濃くし、ちょうど森敦さんが「月山」で描いたように、騙し絵ででもあるかのように混沌とした緑の帯を成していた。

 真ん中の黄土色の世界では、意外に文化的生活が営まれていたために、人々は緑なす森山に依拠する必要はなかった。山は穴を穿つ対象に見えていたかもしれない。

 私の手元に1427頁もの「鶯沢町史」があり、その第一編第一章第三節に、こんな記述がある。
 -- 鶯沢というと鉱山の町かと、いわれるほど細倉のイメージが深い。しかし実際に鉱山が町の経済や行政の上に大きなウエートを占めるようになったのは経営が三菱鉱業の手に移ってからで、大正末期までの鶯沢は、他の農山村と同じように生活の主体は農業であり、それに付随して発達した養蚕業や牧畜業林業などを営んで暮らしていた。--
 この記述者の胸に、どんな思いが過ぎっていたのかと想像すると、ズンとくる。

 その町は昭和三十六年に世帯数のピークを迎え、以後、急激に減少していく。
 森山は、再び、原始に帰り健康を取り戻すのだろう。
 けれど、私の故郷の風景は喪失され、ただ虚ろなクレヨン画の記憶だけが、残されるのか。