第2次大戦と野球(『野球狂の詩』など

ちなみに、鉄五郎がメッツ(当時は東京倶楽部)に入ったのは1946年で「戦後」だが、彼の職業野球入り初勝利のとき、審判・秀吉がやはり「いいタマ、打者ダメ」と言っており、「敵性語禁止」は野球界では「終戦」直後まで続いていたようである。

 

星一徹が巨人に入団した昭和17年(1942年)は、『巨人の星』での川上哲治の台詞によれば、ストライクが「よし」、ボール(悪球)が「だめ」と言い換えられた時代だった。これは真珠湾攻撃の翌年であり、一応、英国と米国は敵であった。しかし、開戦の翌年にそうなったとは敵対の度合いが強かったのか。日本は日清、日中戦争でも日本語の中の漢語を和語にしようとはしなかった。

 

日露戦争のときらしいが、『皇國興廢在此一戰』などは完全にシナ語であり、あの乃木希典(のぎまれすけ、1849~1912)もうまい漢詩を書いたらしい。
あるいは、このときの日本人は、西洋を敵視するかしないかとは関係なく、純粋に日本語(和製漢語)に譯していたか。
中沢啓治の『いいタマ一本』でも戦時中の野球ファンの受難が描かれていた。


原作では文庫5巻収録。過去の舞台は昭和13年(1938年)夏で、帝京中学の岩田鉄五郎は当時18歳。主審は「いいタマ! 打者ダメ! これにて試合完了」と叫んでいた。日中戦争(1937~)は始まっていたが、欧洲の第2次大戦(1939~)は翌年からで、真珠湾攻撃はまだ。
「よれよれ18番」の設定にしたがえば、1938年(昭和13年)当時、鉄五郎は15歳(数え年で16歳)であり、数え年18歳(満17歳)になったのは1940年、満18歳になったのは1941年で、このとき、甲子園大会は春の選抜のみ。

 

「鉄五郎のバラード」が収録された『野球狂の詩』の文庫5巻、第24話「コンピュータ審判」では岩田鉄五郎の職業野球入り初勝利の試合が回想シーンで描かれ、審判として新人だった秀吉が「いいタマ、打者ダメー」と言っていた。文庫1巻の第2話「よれよれ18番」では岩田鉄五郎は1942年(昭和17年)に数え年20歳で出征、1945年(昭和
20年)に帰国、そして1946年(昭和46年)に東京倶楽部に入団し、この東京倶楽部が1950年から東京メッツになった。
つまり、秀吉審判が「いいタマ、打者ダメー」と叫んでいたのは「終戦」の翌年であった。あるいは鉄五郎は出征前に別のプロ球団に入っていたか。

 

平成24年tw

「鉄五郎のバラード」によると昭和13(1938)年夏、岩田鉄五郎の帝京中学時代に主審は「いいタマ!打者ダメ!これにて試合完了」と言っていた。当時日中戦争(1937~)は始まっていたが第2次大戦(1939~)と真珠湾攻撃(1941)はまだだった。「野球狂の詩」の「よれよれ18番」では岩田鉄五郎は1923年生まれ(2013年で90歳)で、1938年当時15歳のはずだが「鉄五郎のバラード」では昭和13年(1938年)で18歳ということになっていた。「コンピュータ審判」では岩田鉄五郎の職業野球入り初勝利の時、審判として新人だった秀吉が「いいタマ、打者ダメー」と言っていた。「よれよれ18番」によると鉄五郎のプロ入りは1946(昭和21)年。終戦翌年ではまだストライクは「いいタマ」だったか。

『巨人の星』での川上哲治の台詞によれば星一徹が巨人に入団した昭和17(1942)年はストライクが「よし」、ボール(悪球)が「だめ」と言い換えられた日本プロ野球の暗黒時代だったらしい。日本では真珠湾攻撃の翌年にもう「敵性語」が禁止されていたのだろうか。小林よしのり氏が「新ゴー宣」で妹尾河童の「少年H」を批判した章によると大東亜戦争当時の日本で西洋系外来語が「敵性語」として禁止されたのは戦争末期だったらしい。ところで大東亜・太平洋戦争の時、ドイツとイタリアは日本の同盟国だったが、独語とイタリア語から入った外来語は問題なかったんだろうか。中国は日本の戦争相手だったが漢語語彙は排除されるどころが逆で日本の戦争遂行の時代に盛んに使われたようだ。
2012年12月27日(木) 14:46:0114:47:1314:50:4314:55:4315:05:5915:07:51

 

平成25年tw

水島新司の「野球狂の詩・鉄五郎のバラード」(原作)によると岩田鉄五郎は昭和13年(1938年)当時18歳、帝京中の花形投手で甲子園で優勝。審判は「いいタマ、打者ダメ、これにて試合完了」と言っていた。日中戦争開始の翌年、真珠湾攻撃の3年前である。水島新司の「野球狂の詩」の原作では、日中戦争開始(1937)の翌年、真珠湾攻撃(1941)の3年前であった1938年の時点で、既に審判はストライクを「いいタマ」、バッターアウトを「打者ダメ」、ゲームセットを「これにて試合完了」と言っていた。

梶原一騎原作の「巨人の星」では、星一徹は昭和17年(1942年)と昭和23年(1948年)の2回、現役選手として巨人に在籍。その間は出征と復員で公式戦に出場できなかった。1966年に始まった原作「巨人の星」第1話、1958年の長嶋茂雄入団当時、劇中の川上哲治が語ったところでは「太平洋戦争がはげしくなり軍の命令でストライクが『よし』、ボールが『だめ』などといいかえられた日本プロ野球の暗黒時代に星一徹は入団してきた」。つまり「野球狂の詩」では1938年の時点で日本の旧制中等学校の野球でストライクが「いいタマ」と言われ、「巨人の星」では1942年の時点で日本プロ野球でストライクが「よし」と言われていたという歴史観になっている。繰り返すが日米開戦は1941年である。
2013年12月09日(月) 02:33:4802:37:5102:45:3102:49:3502:55:21

 

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令和5年霜月

 

参照

令和3年BLOG

/「コンピュータ審判」、更に補足/