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──────────└→第2次大戦と野球└→『最後の早慶戦』└→昭和の初めの戦争

第2次大戦と野球、真珠湾攻撃前後から、すでにストライクは「いいタマ」?(『野球狂の詩』など)
1937年(昭和12年)、東京巨人軍でヴィクトル・スタルヒン(Viktor Starukhin、Victor Starffin)がエースになっていた。
このとき、まだ17歳(推定)だった星一徹(1920~1978)がラヂオの野球中継を聴いて、川上を応援していた(『巨人の星』)。

 

1938年(昭和13年)、『ドラえもん』の原作「地下鉄をつくっちゃえ」における野比のび太の父親、のび助はこの年に生まれた可能性がある。「地下鉄をつくっちゃえ」では、のび助が昭和49年(1974年)の12月25日で36歳であったことが定期券から確認でき、36歳の誕生日が年明け以前(年末)なら1937年生まれで、年明け以降だったとすると、1938年生まれである。
なお、『ドラえもん』の時代設定は掲載時期、アニメ放送時期に合わせて変化しており、「戦後」40年経過した1985年当時の時点でのび助と妻・玉子(のび太の母)は「戦後生まれ」になっている。2012年の映画ドラえもん『のび太と奇跡の島』では1982年当時でのび助が10歳くらい(11歳ののび太と同じくらい)なので1972年前後に生まれた可能性がある。すると放映当時で40歳前後だ。

 

『野球狂の詩』の「鉄五郎のバラード」で、岩田鉄五郎がこの時期を回想している。
原作では昭和13年(1938年)、当時18歳の岩田鉄五郎は帝京中の花形投手。甲子園で優勝。審判は「いいタマ、打者ダメ、これにて試合完了」と言っていた。
アニメでは昭和15年(1940年)が舞台。
画面には縱書きで

 























 

という文字が出て、やはり、審判が「いいタマ、打者ダメ、これにて試合終了」のようなことばを言っていた。

 

戦時中、英語から入った外来語が「敵性語」とされたのは有名だが、真珠湾攻撃で日本がアメリカと戦争を始めたのは1941年で、開戦より前に野球用語が日本語(和漢混合語)になっていたのだろうか。そうだとすれば、日本は戦争前から英語文化を敵視していたことになる。
└→「鉄五郎のバラード」「コンピュータ審判」等に関して補足

 

『野球狂の詩』昭和編最終巻で岩田鉄五郎が杉下茂より5年早くフォークをなげており、それは鉄五郎が17歳のころなので、1940年当時。

 

岩田鉄五郎は1923年生まれで、2013年の時点で90歳を超えているが、『ドカベン ドリームトーナメント編』でも健在。

 

@kyojitsurekishi

「鉄五郎のバラード」によると昭和13(1938)年夏、岩田鉄五郎の帝京中学時代に主審は「いいタマ!打者ダメ!これにて試合完了」と言っていた。当時日中戦争(1937~)は始まっていたが第2次大戦(1939~)と真珠湾攻撃(1941)はまだだった。

午後2:46 · 2012年12月27日

 

「コンピュータ審判」では岩田鉄五郎の職業野球入り初勝利の時、審判として新人だった秀吉が「いいタマ、打者ダメー」と言っていた。「よれよれ18番」によると鉄五郎のプロ入りは1946(昭和21)年。終戦翌年ではまだストライクは「いいタマ」だったか。

午後2:50 · 2012年12月27日

 

『巨人の星』での川上哲治の台詞によれば星一徹が巨人に入団した昭和17(1942)年はストライクが「よし」、ボール(悪球)が「だめ」と言い換えられた日本プロ野球の暗黒時代だったらしい。日本では真珠湾攻撃の翌年にもう「敵性語」が禁止されていたのだろうか

午後2:55 · 2012年12月27日

 

返信先:@npbOP_bot 昭和12年、星一徹少年は熊本工業対中京商業の中等野球大会の中継を聞いて川上を応援していました。5年後の昭和17年に一徹は巨人に入団しました(河崎実『「巨人の星」の謎』)。

午後6:35 · 2013年1月20日

 

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