柳沢吉保が薩摩に忍者を派遣し、現地の反体制派と組んで光圀暗殺を謀ったが、光圀は別人とすり替わっており、暗殺は失敗。
藩主・島津光久は元和2年6月2日(1616年7月15日)に他界。
お新と弥七が仁平(にへい)の仇を討つ。
光圀一行は航路で江戸に戻る。
吉保は切り札として尾張藩主の誓約書を持っていたが、光圀が没収して焼却処分。
光圀は江戸到着のときに、綱吉と話して後継ぎを甲府宰相綱豊に決定して吉保に報告。吉保に隠居を命じる。ここまで光圀がずっとしゃべっていた。
この誓約書の日付が一瞬映ったが、寛永2年(1625年)のもののようで、そうなると元禄3年(1690)の時点で65年前。見間違いだったか?
最後に弥七とお新が仁平の墓参り。仁平は元禄3年に50代で没。
格之進と深雪に男児誕生。
次はなぜか第41部の再放送。いきなりシリーズが後期に飛ぶ。里見浩太朗が助三郎役から光圀役になる。
東野英治郎の「水戸黄門」第1部第2話を見ると柳沢吉保と藤井紋太夫はまず紀伊綱教(吉宗の兄)を綱吉の次の将軍に推し、その次に柳沢の息子・吉里を「綱吉の子」に仕立てて将軍にする考えだった。実際は綱吉の次が家宣→家継→吉宗だったのは周知の如し。
「水戸黄門」では柳沢吉保は紀伊の綱教を綱吉の次の将軍に推していたが、光圀は甲府宰相・綱豊を推し、結果、綱豊が6代将軍・家宣となった。家宣の子・家継が病に倒れ、次は誰かという時、綱條が辞退して吉宗を将軍に推したのは、水戸による紀伊への配慮だったか。
水戸黄門こと光圀は1700年没。「大奥 華の乱」にあるように柳沢吉保の失脚は1709年に綱吉が没して綱豊=家宣が将軍になった時で、生類憐みの令の廃止もその時からだった。
「水戸黄門」第3部再放送終了 今回は紀伊だけでなく尾張徳川家も吉保とつながっていたか。 「水戸黄門」は綱吉の後継の将軍を誰にするかということに関する御三家同士(水戸、尾張、紀伊)と幕臣(老中または老中格)の内紛の物語だった。
「水戸黄門」第3部再放送終了。綱吉の後継は甲府宰相綱豊に決まり、柳沢吉保は隠居を命じられる。光圀が1701年(元禄時代)に没したあとも吉保は健在で、1709年(宝永6年)に没して綱豊が将軍家宣になったたとき、吉保が失脚。
次は第4部でなく第41部の再放送。内容は元禄レトロ。本放送時期は昭和レトロから平成レトロに飛んだ。
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