助三郎(演:杉良太郎)が久々に再登場したが、八兵衛(演:高橋元太郎)が登場せず、助三郎が八兵衛の食いしん坊でドジな役割を兼ねていた。

柳沢吉保は法治を徹底していたが、お犬様の権威で人権を侵害するのは柳沢吉保の暴走。しかしこれは綱吉の意図でないというだけで、法として明文化されていたのなら、いくら庶民が困っても法は法である。

しかし光圀の方が助三郎が魚屋の罪をかぶったり、牢屋で水戸家臣であることを役人に明かして釈放を求めるなど、こちらも法治を無視していた。

結局、法が悪法なら越権行為も許されるという話。

 

第33話(第2部最終回)で光圀(演:東野英治郎)一行は江戸に戻り、江戸では犬の行列に市民が平伏。魚屋が犬を殺して助三郎が身代わりで捕えられる。

弥七(演:中谷一郎)が印籠を牢内の助三郎に提供。助三郎は役人に自分の素姓(光圀の家臣)を名乗るが、それを聴いた柳沢吉保(美濃守なので、劇中でしばしば「みの」と呼ばれている)は「法は法だ」として引き続き助三郎を牢に置いておくよう役人に命じた。生類憐みの令の是非はともかく、「法のもとの平等」の観点から言えば柳沢に理がある。
助三郎は「水戸老公の家臣だという身分を明かしても釈放されないとすると柳沢吉保が奉行に手を回しているのではないか」と勘繰ったが、釈放されないほうがまともだ。


それで魚屋も昔の博打の罪で別件逮捕され、投獄される。なぜか助三郎と同じ牢。

光圀は弥七に頼んで犬の皮を入手。これを柳沢を通じて綱吉に送るよう手配。続いて光圀は綱條を通じて、役人に助三郎と魚屋を釋放させる。

光圀は綱吉から城に呼ばれ、助三郎、格之進(演:横内正)と共に登城。
光圀は柳沢、尾張、紀伊、水戸綱條の前で憐みの令を批判。犬の行列も、犬殺し死罪も柳沢の独断、暴走ということになった。
綱吉は憐みの令の非を認めたようだが、憐みの令で逮捕された者たちが釋放されたかどうか不明。

ここで綱吉の母・桂昌院が「孫の夫である紀伊殿が6代将軍になれば…」と言っていた。この「孫」は綱吉の息女・鶴姫で、その夫は徳川綱教であろう。

 

桂昌院の話だと、柳沢吉保の息子/柳沢吉里/が実は綱吉の落胤で、桂昌院と吉保は綱吉没後に吉里を将軍にするつもりで、それがまだ早いなら、中継ぎとして紀伊徳川家の綱教に将軍を継いでもらいたかった。しかし光圀が甲府宰相綱豊(のちの6代将軍・家宣)を推すので厄介だという話。
つまり、桂昌院と柳沢は紀伊綱教を推し、光圀は家宣を推していたわけで、所詮は綱吉の家臣同士の「茶碗の中の争い」である。
ここで尾張が中納言、紀伊が大納言であった。

吉保も息子が将軍の落胤ということは、妻が自分(吉保)でなく綱吉の子を身ごもっていたことになり、吉保にとってそれがうれしいのかどうか。

第37部で紀伊光貞は吉孚を誘拐して水戸黄門家を追い落とそうとしていた。もとはと言えば水戸家が「副将軍」という虚偽の肩書きを振り回していたことが問題である。

なお、家宣が将軍になった1709年から17年後、1716年に光貞の一子・吉宗が将軍となった。

 

『水戸黄門』第2部第33話(第2部の最終回)「お犬さま罷り通る」では御三家と光圀登城の際、

「尾張中納言様」「紀伊大納言様」「先の中納言水戸光圀様」「水戸中将様」と紹介されていた。

光圀隠居期間の尾張藩主は光友(権大納言)、綱誠(権中納言)、吉通(権中納言)である。

光友(1625~1700、在職1650~1693)…徳川義直の長男
綱誠(1652~1699、在職1693~1699)
吉通(1689~1713、在職1699~1713)…継友、宗春の兄

尾張が中納言ということは、第2部の時代設定は尾張藩主が綱誠の時代で、1693年以降か。

/水戸黄門 (第1-13部) - Wikipedia/→第2部
尾張中納言浪花五郎
紀伊大納言坂東京三郎

なお、光圀隠居期間の紀伊藩主はこうなる。

/徳川光貞 - Wikipedia/→光圀が隠居した1690年元禄3年)の時点で権大納言に転任。
/徳川綱教 - Wikipedia/→元禄11年(1698年)から 権中納言に転任。宝永2年(1705年)5月18日薨去。享年41(満39歳没)。某月某日、贈従二位権大納言


すると時代設定はこうなる。

第3部 → 1690(元禄3)
第42部 → 1691(元禄4)?
第2部 → 1693(元禄6)以降…尾張中納言
第1部 → 1694(元禄7)…藤井紋太夫没

これより少し前の第2部第31話「家宝争奪作戦(柳河)」では九州筑後柳河藩に「大殿(おおとの)」がおり、存命中に藩主の座から退いた「さきの藩主」がいたことになる。調べると水戸光圀隠居時代、この柳河藩では1696年に藩主が交代しており、その前の柳河藩主は光圀隠居前に藩主になっており、後(あと)の柳河藩主は光圀没後まで藩主だった。
すると第2部の時代設定は1696年以降の可能性が高い。

└→〔『水戸黄門』第2部第31話「家宝争奪作戦(柳河)」 | 虚実歴史のブログ (ameblo.jp)

生類憐みの令に関して、この第2部では、桂昌院が信頼していた僧・隆光の勧めによるものとなっているが、これはあくまで1970年当時の歴史観であろう。
「綱吉に後継ぎがなかったから」というのは『知ってるつもり?!』でも取り上げられた説である。
一方、『水戸黄門』第43部第3話「名馬が守った父娘の絆(平塚)」では、生類憐みの令が人命尊重と動物愛護の精神の法でありながら、末端の運用が間違っていたことになっている。第2部でも犬を車らしき物に乗せて人々に土下座させるのは柳沢の独断となっている。

 

柳沢は「ご老公はご乱心」として「乱心者を副将軍などと遇していいものか」と綱吉に諫言していた。乱心者であろうとなかろうと「副将軍」など正式な役職でなかったのだから、将軍が水戸光圀を「副将軍」として遇すること自体が不合理であった。
第37部で水戸の若君が誘拐された事件が描かれており、これも結局は水戸藩主が「副将軍」という余計な肩書きを振りかざしていることに対して、紀伊家が反撥した結果であった。

こうなる水戸光圀は世直しをしたどころかトラブルメーカーだったと言えよう。

最終シリーズで大衆が「水戸黄門幻想」や「水戸黄門症候群」から脱却できれば、それはこの最終シリーズが残した大きな成果と言えよう。

 

BS-TBS 

/#元禄レトロ

この話で柳沢吉保は敵役だが、なぜ吉保が悪役なのか、分かりづらい。冷静に見ると吉保は法治を徹底させようとしていた幕臣であり、水戸光圀の方が越権行為をしていた。

 

役人が魚屋を捕らえて投獄したのは生類憐みの令に基づくものだろうし、法治国家としては当然。助三郎が投獄されたのは魚屋の罪をかぶったから。助三郎は弥七から提供された印籠を役人に見せて釈放してもらおうと試みたが、これは封建的な権威主義である。柳沢の方が近代国家の法治主義に忠実だった。

 

少なくとも1971年当時の多くの日本人はこの話を見て、「水戸黄門が正義で、柳沢吉保が悪」と認識していたのか?これは法治の否定であり、のちに「水戸黄門」が批判される一因であろう。

 

この回では綱吉が生類憐みの令を出した背景には綱吉の母・桂昌院が信頼していた僧侶・隆光の影響があった。つまり「憐みの令」が「悪法」とされた時代には「宗教による影響」のような理由付けが必要だったのだろう。

 

犬公方・徳川綱吉は正保3年(1646年、丙戌)生まれ。

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「水戸黄門」第2部第33話「お犬さま」 劇中、桂昌院と柳沢吉保は綱吉の次の将軍として紀伊の綱教を推しており、その次に柳沢吉保の息子・吉里を綱吉の落胤として将軍にしようと考えていた。光圀は綱豊(家宣)を推しており、これが光圀と吉保の対立の根本だったようだ。 /#元禄レトロ/

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周知のごとく、綱吉の次の将軍は甲府宰相・綱豊(家宣)であり、6代将軍候補の推薦で光圀が勝った。しかし家宣のあとの家継が夭折し、紀伊綱教の弟だった吉宗が8代将軍になった。今回の「水戸黄門」第2部第33話に登場した綱教が吉宗の将軍就任に貢献したらしい。

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柳沢吉保が吉里を将軍に推挙したという説について。もし吉里が綱吉の落胤だとすると、吉里は吉保の実子ではなく、綱吉が吉保の妻(飯塚染子)に産ませた子だと言うことになる。吉保にとってこれは望ましいことではあるまい。

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Twilog>〔2023年08月01日 - Twilog (togetter.com)

 

参照

平成23年tw

/『水戸黄門』における生類憐みの令 - gooブログ ものがたりの歴史 虚実歴史/

2011-09-16 19:00:00

 

/『水戸黄門』第2部第33話「お犬さま罷り通る」の時代設定を検証 - gooブログ ものがたりの歴史 虚実歴史/

2011-09-23 23:11:00

 

平成27年tw

水戸・徳川光圀と紀州・徳川吉宗III+甲府宰相・綱豊=徳川家宣

 

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【再再掲】水戸黄門2-#33お犬さま