『水戸黄門』と『暴れん坊将軍』をまとめるとこうなる。
『水戸黄門』のドラマでは水戸光圀は隠居期間中、紀州の若様・新之助と京都または和歌山で会っていたことになっている。もちろんフィクションである(下注釋)。
柳沢吉保は紀伊の徳川綱教(吉宗の兄)を6代将軍に推していたが、本音は吉保の息子・吉里を将軍家のご落胤に仕立てて将軍にするためだった(東野英治郎版『水戸黄門』)。
光圀は甲府宰相・綱豊を6代将軍に推していた。
生類憐みの令は人命尊重と動物愛護の方だったが、吉保他、幕臣や地方の権力者による悪用が問題化。光圀は将軍に犬の皮を贈るなどして、綱吉に進言。
1698年(元禄11年)に光貞が隠居。
『水戸黄門』第37部最終話で光貞の一派が綱條の息子・吉孚(当時14歳)を誘拐、洗脳しようとした。
光圀が1700年に没し、1709年(宝永6年)に綱吉が没すると、綱豊が将軍となし、家宣となった。吉保は失脚。
『大奥 華の乱』では柳沢吉保が綱吉を刺してしまったが、家臣には自害、世間には病死と知らされ、吉保の殉死の願いは家宣により却下された。
家宣と家継の時代、新井白石と間部詮房が補佐役として正徳の治を行っていた。
家康没後100年の節目となった1716年(正徳6年、享保元年)、家継が病で危なくなった時、綱條は8代将軍の座を辞退し、意欲のあった尾張継友も引くように圧力をかけられて辞退、吉宗が将軍となった(『八代将軍吉宗)。
『暴れん坊将軍8』第10話によると吉宗は将軍就任当時、綱條からの進言で間部詮房を幕政から追放。間部詮房は綱條を消せば幕政に復帰できると考え、水戸藩江戸家老を見方に綱條を誘拐したが、吉宗に阻まれ、江戸家老は成敗された。吉宗は間部詮房の残した政策は今でも役に立っていると言っていた。
綱條は1718年没。間部詮房が何もしなければ、追放から2年で復帰できたかも知れない。
1720年、間部詮房はこの世を去った。
1730年に尾張継友が没。尾張宗春は吉宗への復讐を誓うが、失敗し(推定1737年)、2年後に失脚(『暴れん坊将軍9』第38話「天下取りの野望! 吉宗VS宗春 涙の対決」)。
宗春の失脚は1739年。
1760年に家重が将軍の座から退いた時、紀伊治貞だけでなく尾張宗睦までも将軍の座を辞退。家治が将軍となった(『殿さま風来坊隠れ旅)。
徳川宗家の主は「吉宗の子孫」が継ぎ、家茂まで続いたが、家茂没後、家達までの「つなぎ」として、水戸徳川家出身の慶喜が当主となり、1866年(または1867年)に15代将軍となった。尾張徳川家から将軍は出なかった。何とも気の毒ではある。
 
[にゃかがわ]ささんのツイート

水戸黄門で、悪童時代の吉宗が隠居ジジイに出会って改心する回ならありまっせ(第何部かは忘れた) RT : 越後のちりめん問屋vs徳田新之助

 

2015年06月30日(火)
水戸黄門の旅は日本各地で説教しながら移動するだけで、不正を防ぐ根本的な解決になっていない。
posted at 01:36:36
related tweet
 
返信先: さん

@cyberxoz2 また、「暴れん坊将軍」では、老齢に達した徳川綱條(演じた役者は神山繁)が水戸黄門となって江戸で徳田新之助と対面し、め組の面々の前で「常陸の木綿問屋の隠居」とか名乗っていたと思います。勿論、吉宗と綱條は互いに正体を知っていました。

 

@kyojitsurekishi 間部詮房は「暴れん坊将軍8」第10話「陰謀に巻きこまれた黄門様!?」では西沢利明が演じ、吉宗と綱條を逆恨みした旧幕臣で、少し可哀想な悪役だった。
posted at 09:14:00
 
「水戸黄門」では柳沢吉保は紀伊の綱教を綱吉の次の将軍に推していたが、光圀は甲府宰相・綱豊を推し、結果、綱豊が6代将軍・家宣となった。家宣の子・家継が病に倒れ、次は誰かという時、綱條が辞退して吉宗を将軍に推したのは、水戸による紀伊への配慮だったか。
 
@misterhiropon 「水戸黄門」から派生した作品のような「長七郎」「松平右近」「暴れん坊将軍」「将軍家光忍び旅」「殿さま風来坊隠れ旅」などは皆「主人公が先に正体を明かす」→「悪人が『こやつは偽者だ、斬れ、斬れ』」というパターンでした。逆に「水戸黄門」が例外的になってます。時代設定で考えると、3代家光の時代と8代吉宗~10代家治~11代家斉の時代は、悪人が開き直って、徳川家・松平家の人間に抵抗して返り討ちに遭い、家光と吉宗の間の5代綱吉の時代だけ、悪人が葵の紋にひれ伏して観念することが多かったようになっています。
posted at 13:17:2613:19:56
 

現代日本の政治家が「マスコミを懲らしめる」と言うと水戸黄門のようで時代錯誤に思われるが、時代劇で水戸黄門が悪代官に説教していたのは武家政権による縛りを強化していただけで、民衆による改革の芽を摘んでいたことになる。 「水戸黄門の印籠」は、比喩では旧態依然の権威主義などのマイナスの意味で使われることが多い。では水戸黄門の終了を嘆き、復活を望み、「今の時代、日本に必要」とまで思う人は、「自分にとって気に食わない奴を懲らしめてくれる権力者」を望んでいるわけか。

posted at 23:23:2723:25:29
 

教育テレビ 知恵泉 

江戸時代の将軍のうち、家康、秀忠、家光、家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗まで空(そら)で言える人は多いだろう。吉宗の次が家重というのも有名だろう。次の家治、家斉、家慶、家定、家茂、慶喜まで空で言える人はどれだけいるだろうか。

午後0:58 · 2015年7月7日〕」

 

TBS『水戸黄門』第25部(佐野浅夫主演、1997年3月17日放送)の第13話では高松藩の松平頼常(~よりつね)を石田信之が演じていたと思う。この回では高松藩の若君・松平頼豊(~よりとよ)がまだ若く、軽千代という名。佐野圭亮(さの けいすけ)が演じた。
習近平国家主席が中国で水戸黄門のように人気らしい。旧政権の「腐敗」した権力者をどんどん叩いてるから。水戸黄門が葵の紋をひけらかして「悪代官」たちに説教していたのは、民衆の不満が爆發しないようにする工作だった、中国共産党と同じ…ということになる。
 
「水戸・徳川光圀と紀州・徳川吉宗」III…『水戸黄門』における甲府宰相・綱豊(徳川家宣)、『水戸黄門』』と『暴れん坊将軍』における徳川光圀、綱條(水戸)、吉宗(紀伊)、宗春(尾張)の関係
20:56 - 2020年2月4日
 
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関連語句

注釋
もちろんフィクションである
ドラマの『水戸黄門』で綱吉の時代の新之助が登場した回が2つある。佐野浅夫主演『水戸黄門』第28部第17話、里見浩太朗主演『水戸黄門』第38部第5話。「史実」では元禄10年(1697年)4月11日に綱吉が紀伊藩邸を訪れており、新之助頼方は光圀隠居の時期に江戸で綱吉に謁見していたので、光圀が西国に行かなくてよかった。実際、光圀が訪れた場所で一番西だったのは熱海。

参照
平成37年BLOG