平成25年

みんなの党の山田太郎委員は国会での質問で「ドカベン」の初期のサチ子の年齢を「8歳以下」としていた。「ドカベン」の山田太郎が高1で16歳の時の場面ならサチ子は当時8歳だろう。例のバスの事故の時、ドカベン太郎は10歳、サチ子は2歳だった。これは後にサチ子と里中智の結婚式で判明している

/午後9:55 · 2013年6月2日/

 

もっとも、「ドカベン」で小学生の山田太郎が遭遇したバス事故は春休み中の出来事で、「ドカベン」の山田太郎は5月生まれであるから、太郎が小3から小4に進級した春に事故が起きたとすると、事故当時の太郎の年齢は満9歳10箇月~11箇月だったはずだ。

/午後9:58 · 2013年6月2日/

 
平成30年
の最終回が掲載されている「週刊少年チャンピオン」には「ドカベン」の年表も掲載されてる。「大甲子園(1983~1987)」の後が「ドカベン プロ野球編(1995~2004)」になっていて、1991年の「ドカベン(番外編)新潟明訓対神奈川明訓」が割愛されている。これは惜しい。
 
1991年度、ドカベンの番外編では山田太郎は神奈川明訓高校の3年生で、新潟明訓の小林幹英と練習試合で対戦。一方、プロ野球編では、1991年度の山田太郎は鷹丘中学の3年生で、東郷学園の小林真司投手と対戦していた。
 
1980年代半ば、『大甲子園』の山田太郎は高校生でサチ子は小学生くらい、『ドカベン プロ野球編』の山田太郎は小学生くらい。つまり『大甲子園』のサチ子は『プロ野球編』の山田太郎とほぼ同世代である。
 

山田対球道が最終回か。水原勇気とあぶさんが解説なのか。明訓が初めて負けて以来、ろくに読んでないのだが、水島ワールドがクロスオーバーしたのは知ってる。ドカベンと野球狂の詩の世界線はどこで交わったんだ?

 

1991年、新潟明訓高校が甲子園に初出場。ドカベンの番外編では、夏の予選の前の練習試合で小林幹英投手が山田太郎と対戦。「I Love Basabell」収録。
 
#ドカベン最終回 
#ドカベンドリームトーナメント編 の最終回には、藤村甲子園、岩風五郎、真田一球、岩田鉄五郎、水原勇気、中西球道が登場している。#ドカベン シリーズの最終回は、#男どアホウ甲子園#一球さん#野球狂の詩#球道くん の続編の最終回でもある。
posted at 13:55:26
 
漫画研究家いわく、「巨人の星」「侍ジャイアンツ」は(個人対個人の)バトル漫画だった。確かに梶原一騎は球技より格闘技を扱った劇画の原作の方が專門だろう。
 
>「『ドカベン』の功績は、『魔球』などの絵空事を前面に出す旧来の手法を排し、野球選手が読むに堪える漫画を確立したこと」と野球漫画評論家のツクイヨシヒサさん。投手と打者の超人的対決ではなく、一長一短の個性が織りなすチーム戦を描き、日本人の野球観を向上させたと説く。
 
返信先: さん、さん
 
解説は不知火守と水原勇気でした。大甲子園で岩田鉄五郎、五利一平、水原勇気、藤村甲子園、真田一球が登場し、男どアホウ甲子園→一球さん、野球狂の詩の世界が一旦合流しましたが、ドカベンプロ野球編第1話で山田世代が指名されたドラフトに東京メッツは参加していませんでした。
 
山田太郎は1974年に明訓高校に入学。もし1977年に卒業していたら右腕投手時代の星飛雄馬と対戦するチャンスはあった。しかし実際は1977年当時も山田太郎は高1。高2の夏が1979年。この年、飛雄馬は「巨人のサムライ炎」では二軍コーチになり、アニメ「新巨人の星II」ではメジャーに移籍した。
 
山田太郎は1974年に明訓高校に入学。もし1977年に卒業していたら、山田は1976年秋のドラフトで指名された当時高3の選手と同世代になる。原辰徳も当時、高3だったが、東海大学に進学した。