日本各地の文化のPRは時代劇でなくても刑事物でできる。
 
現代劇の旅刑事物なら電柱や飛行機が画面に映ろうと問題ない。
『水戸黄門』の場合、設定上は日本各地だが、結局、京都の名所のPRになっている。流れ橋など必殺シリーズで何度も映った。そうなると『水戸黄門』のスポンサーにはパナソニックでなく京都の観光協会やJR西日本、JR東海がふさわしい。それなのに時代劇の再放送の合間のCMは老人向けの健康食品や葬儀会社、保険のCMだらけ。これでは若者が敬遠するのも当然。
現代ドラマでも日本各地の名産を紹介できるし、何ならバラエティ番組でも各地の名物の紹介はできる。
まして「女優(例:由美かおる)の入浴シーン」だけを見たがる人はもう、時代劇など見ないで、『ちい散歩』の女優版でも探して見ればいい。
『水戸黄門』の由美かおるの入浴は2009年に200回を達成したが、2011年の最終回SPが201回目なので、3年間、あのシーンがなかったことになる。それが当たり前だ。
雛形あきこの演じた楓の入浴シーンもなかったようで、これは脚本家の判断。大体、雛形あきこは『いい旅夢気分』で入浴していたらしい。そういうのを見たい視聴者は旅の番組でも見ればいい。
 
女優のお風呂シーンがなければ終わるような『水戸黄門』であれば、さっさと終わってよかった。
印籠シーンを毎回見たければ東野英治郎のシリーズのDVDを借りればいい。
場合によってはYouTubeで「水戸黄門由美かおる入浴シーン特集」や「印籠シーン詰め合わせ」がUPされているかも知れないから、それを見ればいい。
藤田まことが仕事人ブームの時に言ったように、同じ場面の繰り返しで芝居がないなら同じフィルムを使いまわした方がましで、たくさんの俳優が忙しいスケジュールを調整して京都の撮影所に集まる必要はない。
松下幸之助は「世のため人のためになるものを作れ」と命じ、スタッフが選んだのが『水戸黄門』だった。しかし『水戸黄門』の何が世の役に立ったか。世界の名産の紹介や水戸老侯の説教などは誰が主役でも変わらないが、視聴者が印籠や女優の入浴シーンばかり見たがるようでは、メッセージはつたわらない。これでは『水戸黄門』をやっても世のためにはならない。現代ドラマの方がましというわけだ。
こうなると『水戸黄門』を終わらせたのはプロデューサーでも出演者でもなく、視聴者のレベルの低下であり、印籠が定番化した東野黄門初期の段階でこのシリーズの堕落は始まっていたと言えよう。
印籠のないシーンは東野黄門の再放送なら許されるが、石坂黄門では拒絶される。それなら新シリーズは無意味ということになる。
 
スタッフは権威主義的な印籠シーンを何度も排除しようとしたが視聴者が抗議して印籠シーンは定番化した。
終盤、印籠の権威は中に入っていた家康の遺骨と判明し、それを歴代「格さん」が投げて渡していた。
『水戸黄門』のファンが毎回見たがっていた「印籠」の権威など所詮は「家紋付きの薬入れ」であるということを示していた。
最後の由美かおるの入浴シーンはサービスで追加したようなものだったようだ。
本来、『水戸黄門』におけるお銀またはお娟の入浴シーンは老公助格の入浴シーンと同じく、ストーリーの上で必要ならやる、必要なければやらないという性質のもので、お新、志乃の入浴シーンもそうだったはずだ。
『水戸黄門』終了は、毎回「印籠シーン」と「由美かおるの入浴シーン」だけを見たがっていた「バカな視聴者ども」に対しスタッフが三行半(みくだりはん)を突き付けた結果だったのだろう。
惜しむらくは『水戸黄門』が最終回のラストシーンでも旅を続け、印籠による「世直し」が無意味であることがテーマにならなかったことだ。水戸黄門愛好会などが「黄門様の旅を終わらせてはなりません」とHPで述べていたから、スタッフは「黄門様の旅は終わってません」「番組が終わっただけです」と主張したかったのだろう。
 
民放地上波における連続時代劇の減少はテレビ界や視聴者がその原因を作ってきたのに、作り手は「時代のせい」、観る側は「テレビ局が悪い」「出演者が悪い」として自分たちの責任を棚上げしている傾向がある。
テレビ受像機制作業界がテレビを「1家に1台」から「1人に1台」にして販賣促進をうながし、結果、家族で見る番組がバラバラになれば、若者に家電を売りたい松下は老人が見る時代劇から撤退するのも当たり前だ。
視聴者も自分たちが過去の再放送にしがみついて今の時代劇を見なくなれば、時代劇枠がなくなることは予想できたはずだ。
『水戸黄門』が終了決定してから慌てて無駄な署名運動などをしていた水戸市民と市長は、松下のように『水戸黄門』にスポンサーやプロデューサーとして加わることもなく、あくまで水戸黄門の視聴者の立場で居続けたことで何の対策もできなかった。
もし水戸市が前々からスポンサーとして『水戸黄門』に制作費を提供していたら視聴率低下の時点で採算が取れないことがわかり、みずから終了を提案しただろう。
政府主導とはいえ地デジ化でチャンネルが増えれば地上波の役割が減るのも自明の理。
 
2015年に『水戸黄門』がSPで復活した時、夜9時に始まり、影響スポンサーは多様で、水戸市もCMを流していた。これが本来、あるべき姿であった。
 
@kyojitsurekishi 春日太一氏は『オール讀物』で『水戸黄門』終了の理由を分析した時は、時代劇のSP枠移行がドラマの質向上のチャンスだと述べていたのに、新潮新書『#なぜ時代劇は滅びるのか』では、結論が「時代劇に相応しい次世代役者が育たず、京都の撮影所の裏方の仕事がなくなる」という泣き言になってしまった。
17:06 - 2016年4月19日