平成24年tw
@kyojitsurekishi 赤穂浪士による吉良邸討ち入りは元禄15年12月14日とされ、元禄15年は西暦1702年であるが、討ち入りの日は西洋の暦では1703年1月30日になる。大野敏明氏が「歴史ドラマの大ウソ」で指摘している。また吉良上野介の没年をネットで調べてもわかる。
posted at 23:37:42
 
平成25年tw
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【時代劇の時代設定】忠臣蔵:徳川光圀(水戸光圀)没の直後、1701年に殿中松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に斬り付けた。吉良上野介は元禄15年(1702年)12月15日没とされるが陽暦では1703年1月31日没。大石内蔵助の切腹は1703年。@kyojitsurekishi
posted at 10:16:56 
 
@kyojitsurekishi 吉良上野介は寛永18年9月2日(1641年10月5日)生まれで、元禄15年(1702年)12月15日没だが、陽暦では年明け後の1703年1月31日没。水戸光圀没から約2箇月後に吉良が殺害された。犯人は大石内蔵助以下47名のテロ集団。#忠臣蔵 
posted at 12:55:31
 

返信先:@sankei_sunayama

赤穂浪士四十七士の吉良邸討ち入りもテロですね。

午後11:38 · 2013年12月2日

 

赤穂浪士四十七士は犯罪者集団である。
 
江戸時代には敵討ちは合法はだったが、「」で浅野内匠頭の家臣 47名が徒党を組んで吉良邸に討ち入ったテロ行為は敵討ちではない。なぜなら吉良上野介は浅野内匠頭を殺してはいない。
 
」において吉良上野介は殿中松の廊下で浅野内匠頭によって斬り付けられ、無抵抗だった。もし大石内蔵助が亡君・浅野内匠頭の仇を討つなら、吉良上野介でなく徳川綱吉を討つのが筋であろう。赤穂浪士47名が吉良上野介を恨むのは完全な逆恨みだった。
 
浅野内匠頭は将軍・綱吉によって切腹を命じられたのであり、刃傷事件で吉良上野介は浅野内匠頭に何の危害も与えていない。吉良はお咎め無し、浅野は切腹というのも当然の処分だ。「喧嘩両成敗」も通らない。吉良は一方的に斬り付けられたのだから喧嘩ですらない。
 
安重根が韓国人にとって義士であっても日本人にとって犯罪者である。吉良邸に討ち入った赤穂浪士四十七士は赤穂の側から見て義士であっても、吉良から見れば犯罪者。また赤穂にとっても浅野内匠頭は刃傷事件を起こして藩士たちの生活を苦しめたダメな藩主であるはず。
 
もうすぐ元禄赤穂事件から320周年。 
 
吉良 義央(きら よしひさ、よしなか)、元禄15年12月15日(西暦1703年1月31日)没。
 
 
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