内海哲也が2006年の2月、元巨人の金田正一について原監督から「この人知っているか」と訊かれて、内海投手は「カネムラさんですか」と言ってしまい、勝利数について続けて訊かれると「300何勝くらい?」と答えたらしい。
Y!Japan 金田 内海 カネムラ

 

2006年はトリノ五輪で荒川静香が金メダルを獲得、王監督のもとで野球のWBCがあった時期である。

 

金田正一は原よりも長嶋よりも先輩である。
原辰徳が生まれた1958年は長嶋茂雄が大学卒業後に巨人に入った年で、このとき、金田正一は国鉄スワローズのエースであり、新人だった長嶋を4打席4三振に打ち取った。
これは星飛雄馬が小学生だったときに学校で話題になっており、11年後、金田が引退したときにも長嶋が語っている。

 

金田正一の引退は『巨人の星』文庫第9巻、講談社コミックスでは第15巻に収録されており、1969年11月30日、雨の中、場所は神宮球場内の記者会見場でおこなわれ、劇中で星飛雄馬と伴宙太が受付を担当している。
文庫第8巻150ページで金田正一投手の経歴が詳しく書かれてある。内海投手もこれを読んでいれば、金田を「カネムラ」などと間違えることはなかっただろう。

 

場所が後楽園球場でなく神宮球場だったのは少し意外だが、金田正一が巨人の前は国鉄スワローズに在籍しており、金田の記録のほとんどはスワローズ時代に達成されたことを考えると神宮で引退会見というのも金田投手らしい。
劇中で関西辯を話す金田が東京の2球団で活躍したことは何とも興味深い。ちなみに新旧『巨人の星』で星飛雄馬と何度か対戦した阪神の田淵と掛布は関東出身でありながら阪神を盛り上げた。『巨人の星』の原作では甲子園球場の食堂で田淵と金田が会話する場面がある。

 

金田正一は1969年の秋、星飛雄馬の前で、カーブナ投げすぎで曲がってしまった自分の左腕を見せたが、その1年後、1970年の後半戦を最後に星飛雄馬が左腕を破壊して失踪してしまったわけで、金田もわずか1年で星飛雄馬が一時は引退するとは思っていなかっただろう。
しかも原作ではその左腕投手時代の星飛雄馬の最後の試合を金田が見届けている。

 

1973年春、巨人とロッテのオープン戦、金田正一率いるロッテが巨人の番場蛮と対戦した。原作では番場は大回転魔球の時期だったが、アニメではまだハイ・ジャンプ魔球も編み出していない速球の時期で、金田は土壇場で番場の弱点を見抜いた。キャンプ時間までノーコンだった番場は八幡太郎平の「ノーコン改良兵器」でコントロールが改善されたが、それにより番場がプレートを踏む位置で投げるボールのコースがわかってしまい、番場はロッテ打線に滅多打ちにされた。
原作では番場は1971年が剛速球のみ、72年がHJ魔球の時期で、番場のノーコンが改善されたことでコースを読むようになったのはヤクルトの眉月。スワローズOBでもある金田の後輩であり、これも奇遇であった。

 

星飛雄馬は1975年、最下位長嶋ジャイアンツの悲惨な境遇を目の当たりにして、1976年から巨人に復帰。金田は登場しなかったが、1977年にヤクルトに入団した花形と対戦した星は、以前の金田からの助言を思い出し、花形の2打席目でスローボールを投げて打ち取った。『新巨人の星』で金田の似顔絵が登場したのはこのときくらいだったと思う。

 

1969年に金田が引退したとき、桑田真澄は1歳、清原は2歳だったことになる。
イチローは川上巨人V9の1973年生まれなので生まれておらず、松井秀喜は長嶋が引退した1974年生まれ。
└→補足

 

 

(2012年から)6年前、内海は金田正一を「カネムラ」と間違え、本当は400勝なのに「300勝くらい」と言ったらしい。
tweet

/午後6:14 · 2012年10月21日/

 

@npbOP_bot 1982年当時、「1リットルの涙」の作者・木藤亜也氏が入院中で、中日がセリーグ優勝した時に病院の食事で赤飯と茶碗蒸しが出たらしい。当時ロッテにいた落合博満が三冠王獲得。金田正一の名前と400勝の記録(1969年)を知らなかった巨人の内海哲也が1982年に誕生

/午後0:23 · 2013年3月7日/

 

金田正一の400勝は「巨人の星」で扱われている。ロッテの監督になった後の金田は「侍ジャイアンツ」に登場する。元巨人の投手で通算300勝はスタルヒンであり、このスタルヒンも「巨人の星」で名前がたびたび出てくる。

/午後6:17 · 2012年10月21日/

 

巨人の内海が生まれたのは「新巨人の星II」から3年後。金田やONの現役時代を知らない世代であろう。

/午後6:18 · 2012年10月21日/

 

「徹子の部屋」に400勝の金田正一が出ていた。数年前、巨人の内海は金田正一を知らず「金村さん?」「300何勝ですよね」と言ったらしい。それが今は巨人のエースか。

参考ブログ記事

2006年02月14日

/上田龍公式サイト「Ryo's Baseball Cafe Americain」Annex「店主日記」:「カネムラさん」にされちゃった!「400勝投手」金田正一 (livedoor.jp)/

/午後3:26 · 2012年11月14日/

 

/Yahoo!ニュース 最新さん (@koma1998) / Twitter/

/「江夏の…何球でしたっけ?」 江夏氏に若虎戦々恐々 | 東スポの野球に関するニュースを掲載 (tokyo-sports.co.jp)/

/午後6:36 · 2014年12月3日/

 

江夏の…何球でしたっけ?」 江夏氏に若虎戦々恐々(東スポWeb) - Y!ニュース

/午後6:43 · 2014年12月3日/

 

昔、「巨人の星」の単行本を読んでいたら「金田正一」の「正一」に「しょういち」というかなルビがあったと思うが、今、文庫の方を見たら「まさいち」になっている。 2015年1月11日15:19tw

/午後3:19 · 2015年1月11日/

 

押阪忍司会の「東芝ファミリーホール特ダネ登場!?」では金田正一が「かねさまさいちさん」と紹介されていた。小学生の時、級友同士で「金田正一はショウイチかマサイチか」という議論がいきなり始まったのを記憶している。 2015年1月11日15:22tw

/午後3:22 · 2015年1月11日/

 

/#パネルクイズアタック25//#アタック25/  

日本プロ野球で、打者の本塁打の最多数記録は王貞治選手の868本ですが、投手の最多勝利記録は金田正一選手の何勝でしょう」という問題。誰も答えられなかった。今では、49年前(昭和44年、西暦1969年)の金田正一の400勝を誰も知らないのだろうか。

/午後2:09 · 2018年4月29日/

 

/400勝、金田正一…国鉄スワローズ→読売ジャイアンツ→(引退後)ロッテ監督 | 虚実歴史のブログ (ameblo.jp)/

/「カネムラさん」にされちゃった!「400勝投手」金田正一/  
/#内海哲也/

/0:31 - 2019年10月8日/

 

金田正一は在日韓国人2世で韓国名「金慶弘(김경홍)」らしい。金田正一が生まれた1933年(昭和8年)当時は1910年(明治43年)の日韓併合から23年経過しており、朝鮮は日本の一部だった。金田正一の世代で朝鮮系日本人は珍しくないだろう。

/400勝、金田正一…国鉄スワローズ→読売ジャイアンツ→(引退後)ロッテ監督 | 虚実歴史のブログ (ameblo.jp)/

/6:31 - 2019年10月8日//午前6:31 · 2019年10月8日/

 

#金田正一(Kaneda Masaichi←金慶弘:Kim Kyung-Hong)は西暦1969年(昭和44年)に現役引退。西暦2019年(令和元年)は金田正一の現役引退50周年の年だった。

11:45 - 2020年3月2日

 

/金田正一関連tw(2019年10月8日) | 虚実歴史のブログ (ameblo.jp)/

/午前11:45 · 2020年3月2日/

 

令和元年(2019年)

/西武内海、金田さんに「カネムラさん」大失態を回顧 - プロ野球 : 日刊スポーツ (nikkansports.com)/

/午前2:43 · 2021年10月2日·/

 

 

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