1973年の巨人×南海戦。川上巨人と野村南海の対戦。
Y!Japan 1973年の日本シリーズ

 

 

1973年に野村克也はあぶさんを南海に入れた。1973年のセ・リーグ最終戦(巨×神)では番場がウルフとの対戦の前に雨の中で分身魔球を練習していたが、南海との日本シリーズではなぜか分身魔球は雨に弱いことに。
また阪神戦でウルフに横分身を打たれた番場は他の打者を剛速球で打ち取った。一方、南海戦で番場は雨の中で分身魔球がうまくいかず打たれていた。ウルフのいる阪神、眉月のいるヤクルト、大砲のいる中日ならともかく、番場の魔球を打ったライバルがいない南海が相手なら、番場は剛速球やハイ・ジャンプ魔球、大回転魔球を投げても南海打線に通用したのでは?

 

分身魔球のフォームに時間がかかることで走者が盗塁。そこで番場は分身魔球を投げると見せかけて、打者のバットにぶつけて打ち取った。
これは番場が大リーグボール1号を投げた例である。

 

1973年の日本シリーズは10月27日、28日が大阪で。次に10月30日、31日、11月1日に東京の後楽園でおこなわれた模様。移動はおそらく10月29日であろう。
アニメの『侍ジャイアンツ』ではこういう流れになる。

 

大阪
10月27日、野村が美波理香の結婚の噂を利用して番場を苦しめた。
10月28日、番場が雨の中での分身魔球を会得。頭脳作戦で野村に復讐。

移動中
10月29日 新幹線で長嶋が番場に「長嶋流喧嘩野球」を語った。

東京、後楽園
10月30日、巨人が勝利するも、王が絶好球を打たないことで眉月が批判。
10月31日~11月1日(推定)、王の腰痛が野村にばれるが、番場が王をかばって奮戦。

 

原作では1973年の日本シリーズ当時の番場は大回転魔球とハラキリ・シュートの中間期であった。

 

この1973年の日本シリーズが終わったあとのドラフトで阪急が江川卓(当時は作新学院)を指名したが、江川は法政大学に進学。『野球狂の詩』では阪神が王島大介を指名。稲尾和久監督の太平洋ライオンズが王島と同じ学校の投手を指名。東京メッツは唐部と丘(TO砲)、そして富樫平八郎を指名し、年末に入団テストで火浦健(王島大介の兄)を獲得。野村南海は富樫の学友だった日下部を指名したが、日下部は早稲田大学進学を希望し、野村自身の説得にも日下部は意志を変えなかった。日下部は「4年後」に早大4年でメッツから指名されて入団したはずだが、それは実際は1年後の1974年秋のドラフトであった。

 

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