自民党の主な派閥の名称 

竹下派・経世会は田中派・木曜クラブから分離独立したものだが、所属議員の大半が経世会に流れ、二階堂グループとなった木曜クラブはメンバー激減の末に消滅。
ポスト中曽根をめぐる竹下、安倍、宮沢の争いは、中曽根派が總裁派閥で、これが「与党」の役割であり、竹下派、安倍派、宮沢派はそれぞれ自民党内の「竹下党」「安倍党」「宮沢党」のようなものであった。

 

竹下派ができたてのころは、田中派の中に二階堂グループ、竹下グループ、中間派(中立系、派内派)ができて、後藤田氏が中間だったときなど、両グループからアプローチがあったらしい。
これでは、田中派が例えば「田中角栄党」で、その中に「竹下派」「二階堂派」「中間派」がある形のほうがわかりやすかった。

 

竹下登が首相になると、経世会の会長には金丸信が就任。最大派閥となった竹下派は、日本政界の中の自民党のような役割を果たし、ある政治評論家の使った比喩を借りれば、自民党という太陽の周りで社会党や共産党などが惑星のように回り、自民党内部では竹下派という太陽の周圍を他の派閥が惑星のように回っていた。
したがって竹下派の總裁候補→自民党總裁→日本の總理大臣というレールができあがっていた。

 

冷戦崩壊をへて、海部内閣のあと、誰を首相にするかという問題で、金丸信が経世会として他派の宮沢喜一を推すと決めた瞬間、自動的に「次の總理は宮沢氏」と決まってしまった。
竹下派の内部は金丸と竹下という二人のリーダーがいることでバランスを保っていたが、金丸と竹下の時代が終わるにつれ、小渕・橋本グループと小沢・羽田グループ(渡部恒三も含む)が分裂し、小沢・羽田グループが自民党から離れ、新生党を結成。細川政権成立になったのは周知の如しである。

 

ベルリンの壁が崩壊したのが1989年。社会主義は自滅したかに想われたが、それは資本主義の勝利ではなかった。20年後の2009年には資本主義も自滅している。「100年に一度の不況」も「派遣切り」も「医師不足」も市場原理主義の当然の結果である。

 

もはや、冷戦時代の「右か左か」「保守か革新か」という対立軸は通用しない。

 

日本では「保守」が改憲を、「革新」が護憲を叫ぶという、奇妙なねじれ現象が続いてきた。
日本の政権交代は革命のようであるが、保守党だったはずの自民党が進めた構造改革に対する批判でもある。小泉政権が改革を勧めた時点で「保守政党」の存在価値はなくなったと言える。

 

自民党が「改革」をしたいのなら社民党や共産党に「革命」させればいい。自民党が「保守」を目指すのなら、すでに小泉構造改革を批判している他の各党のほうが、自民より保守的なことを言っているから、今回の政権交代は当然の結果であった。

 

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/平成21年9月/

 

関連語句
自民党 派閥
 

参照

/民党の派閥の大まかな系譜/

 

/自民党の主な派閥の名称/

 

/自民党の派閥・解説1/

 

/自民党の派閥・解説2/


その他(2009年8月~9月)