20世紀後半、スポーツ界における魔球、特殊な投法、打法の歴史
1960年代から70年代にかけて、日本のスポーツ界では各種「魔球」が入り乱れていた。

 

 

既存の変化球の応用、曲がり方が急なもの
杉下茂がフォークボールで有名のようだが、『野球狂の詩』では、「終戦」前、若き日の岩田鉄五郎がフォークボール(当時の呼び名は「くせ球」)で五利一平と対戦。東京メッツの水原勇気が下手投げで揺れるフォーク「ドリーム・ボール」を使用(76年ごろ)。

 

『ドカベン』でいわき東高校の緒方、白新高校の不知火も使用(74年~80年ごろ)。『巨人の星』の星飛雄馬が「消える魔球」として投げた縱に変化する魔送球(69~70年)はフォークに近い。『新巨人の星』では、星飛雄馬も右腕投手となって以降、フォークを投げるようになっていた。

 

星飛雄馬が速球投手だった青雲高校時代(66年または67年)、尾張高校の太刀川投手のドロップは「魔球」と呼ばれた。打者・飛雄馬は太刀川の疲れを見抜き、バントで攻略。星に負けた左門はプロに入ったのに、太刀川のプロ入りの記録がないのは不思議。
シュートの応用では、『ドカベン』で明訓高校・里中智が落ちるシュート、「さとるボール」を開發(74~75年ごろ)。さらに、『侍ジャイアンツ』番場蛮の「ハラキリ・シュート」もある。これは打者がバットを振ると捕手が取れない弱点があった。

 

『新巨人の星』の星飛雄馬も右投手時代(76~79年)にシュートやスライダーを使っていた。
『巨人の星』の星一徹の「魔送球」(1948年)は3塁手が1塁に送球するものだが、曲がり方が急な変化球。星飛雄馬は縱に変化させて「大リーグボール2号」にしたが、原型のまま打者を打ち取る目的で使ったのが『侍ジャイアンツ』の番場蛮の「ハラキリ・シュート」(74年)。これは『大甲子園』で犬飼知三郎(室戸学習塾)が使った「(超)対角線投法」(80年代前半)につながる。

 

『ドカベン』の里中智はシュートを落ちる球にして「さとるボール」という変化球に發展させ、プロ入団後はホップしてドロップする「スカイフォーク」を發明。
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不知火守はプロ入り後、「イナズマ」という新変化球を開發。

 

 

関連語句

 



参照

星飛雄馬と番場蛮の魔球を攻略できる梶原・水島キャラクター(知恵ノート
「魔球」
スポーツ全般、梶原vs水島他(2008年9月14日~15日)