こんばんは。
いよいよ京都市も、最高気温が一桁に突入しました。
今日の京都府北部のお天気マークは、
さて、幕末動乱の石清水八幡宮の後篇です。
注)非常に、長いです。自分の勉強のための記録ですので、飛ばし飛ばし読んでいただけたら幸いです。
前篇の最後に、「展望台」からの眺めの写真を載せました。
この美しい景色は、地元の方々のボランティア団体である、NPO法人「八幡竹くらぶ」
の皆さまによって、整備されたからこそのものだということを知りました。
男山の放置竹林の整備を目的として、活動されているのだそうです。
こうした活動が繰り返されてきたからこそ、現代の私たちも、貴重な史跡をよい状態で知ることができるんですよね。感動しました。
さて、展望台を後にして、来た「裏参道」を再び歩いて戻ります。
その途中で、木村学芸課長より教えていただきました。
この、根も葉も立派な木「タラヨウ(多羅葉)」は、その昔、字を書くのにその葉を使ったことから、「葉書」という言葉の語源となった、と言われているそうです。
再び、「南総門」の前に戻ってきました。
先に見えるのが、「三ノ鳥居」です。この石敷の参道は、「馬場先」と呼ばれているそうです。
三ノ鳥居の向こうに立つ「神馬社」に、奉納された馬を置いていたことが由来しているのでしょうか。両側に静かに並ぶ、石造りの灯篭が素敵です。
左に見える、建物は…という、畏れ多い場所でした。
そして、今から約150年前の1864年8月、幕末に起こった「禁門の変」にも、この場所は関わりがありました。
*禁門の変 (蛤御門の変)*
前年1863年、会津藩・薩摩藩らによる「八月十八日の政変」で京都を追われた長州藩が、なかなか攘夷を実行できない幕府に見切りをつけ、
また直前の6月、新選組による「池田屋事件」で幕府側に藩士を殺害されたことも火種となって、
長州藩の冤罪(御所に弓を引いたこと)を天皇に赦してもらうという大義を掲げて挙兵し上洛したが、
会津藩を擁護し長州征伐を求める孝明天皇のもと、会津・薩摩藩らの反撃を受け、敗北した事件。
長州藩内は、「急進派」と「慎重派」(高杉晋作氏は慎重派)に分かれてしまっていました。 今回の挙兵・上洛も、来島又兵衛氏、真木和泉氏らに、三人の家老を含めた急進派の行動でした。
一方、長州藩が兵を連れて京都入りしたことを受けて、当時「禁裏御守衛総督」(御所を護衛する役職)であった徳川慶喜氏
(同年3月に、将軍御見職を辞任しこの職に就いたばかりでした。将軍になるのは2年後)は、戦をするつもりはなく、長州藩に退去を命令していました。
この時、長州藩兵の中心人物らが集まり、どうすべきか軍議を開いたのが、石清水八幡宮のこの場所だということです。
久坂玄端氏は、朝廷からの退去命令に従おうと提案しますが、来島氏、真木氏らは聞く耳を持たず、仕方なく挙兵。
退去を求め続けていた禁裏御守衛総督も、孝明天皇のご意志を受け、長州の上洛を止めたい薩摩・土佐・久留米藩らとともに攻撃をはじめ、ついに戦闘が始まります。
結果、長州藩は敗北し、久坂氏、来島氏らは御所内にて自害、真木氏も天王山まで逃げ落ち自害しました…。久坂氏の意見を聞いておけば…ですね。
しかしご本人たちは、自らの信ずる道を貫いたのですから、後悔などしていないようにも思います。
さて、この社務所から、参道を挟んで反対側の方角に、広場が広がっています。
そこに、突然あるのが、「エジソン記念碑」です。
’Genius is 1 percent inspiration and 99 percent perspiration’
(天才とは、1%のひらめきと、99%の努力である)
なぜ、石清水八幡宮に、エジソン記念碑が…!その謎の答えは、こちらです。↓
エジソン氏は、炭素白熱電球のフィラメントのために、6000以上もの材料を炭にして試してみたそうです。
その中で、偶然机にあった竹の扇子を見てそれを使ってみたところ、 始めはほんの少しの間しか灯りがもたなかったのが、200時間ももつように!
となると、いろんな竹を集めて最適な竹を見つけたいエジソン氏。世界中に協力者を派遣し竹の採集に励みました。
1880年、来日した竹採集者が、「竹なら京都へ」という助言を受けて京都へ行くと、 京都では、二代京都府知事・槇村正直氏から(!)ここ八幡の竹を勧められ、採集。結果、世界中のどこの竹よりも、この八幡の竹が長く灯ったのだそうです。その時間、2450時間!
それ以来、この八幡の竹はエジソン氏の立ち上げた会社に輸出され続け、世界中に光を届けました。
行きに乗った、「男山ケーブル」内の手すりは、電球の形を模しているそうです!
また、八幡市駅前には、エジソン氏の銅像もありました。世界中の人々に灯りをもたらした電球に、日本の、京都の、八幡の竹が使われていたなんてことを知っている方は、どのくらいいらっしゃるのでしょう。 もっと、知られるべきですね!
そのエジソン記念碑の近くに、こんな方もいらっしゃいました。
この方は一体どなたなのか、説明書きもなかったので気になり、調べました。すると、「ボーイスカウト像」なるものであることがわかりました!
どうやら、この地で活動している、「ボーイスカウト綴喜(つづき)第一団」が、この石清水八幡宮を拠点としていることを表しているようです。
彼の目の前にある、シンボルタワー「涌峯塔」に向かって、敬礼しているところだそうです。
現場では、あのディズニー映画の「○ッディ」だろう、ということでpちゃんと納得し合いました(笑)
さて、三ノ鳥居、神馬社の前に戻ってきました。
こちら、露出しているこの自然の石は、「一ツ石」です。
「お百度石」とも呼ばれ、百度参り・千度参りの起点になっていたことに由来するそうです。ここから、本殿までを往復するのか…百度…。大変!
ちなみにこの石は、「勝負石」とも呼ばれる勝負必勝・勝運の石だそうですよ!
ここから、長い石階段に続く「表参道」を下って、
「二ノ鳥居」に着きました。
※二ノ鳥居に着く前に、石清水八幡宮の名前の由来ともなった、霊泉・石清水が湧き出る「石清水社」があります。
源頼朝公が自らの御手で奉納されたと伝わる松です。
そこから少し離れた場所に、「安居橋(あんごばし)」がありました。立派な太鼓橋です。
また来た方角へ戻り、しばらく行くと、「高良神社(こうらじんじゃ)」がありました。
そう、この神社こそが、「徒然草」の中で仁和寺の法師が、
「石清水八幡宮へ一度も参拝したことがないのを苦にして、ある日はるばる徒歩でやってきたが、本宮と間違えてここの参拝のみで満足し、男山山頂の本社を参拝せず帰ってしまった」という、その場所です。
また幕末のお話になりますが、 1868年の「鳥羽・伏見の戦い」で、旧幕府軍は京都で最後に、この男山の東西に分かれて陣を敷きました。
*鳥羽・伏見の戦い*
旧幕府軍および会津・桑名藩兵と、新政府軍(薩長軍)との内戦。「戊辰戦争」の始まりの戦。
旧暦の慶応4年1月3日、旧幕府軍は伏見奉行所、新政府軍は御香宮神社に布陣し戦うが、
伏見奉行所に火がついたことで、旧幕府軍は南の淀まで退く。
1月4日、旧幕府軍は下鳥羽で陣を張り直すが、東(伏見方面)からの新政府軍の攻撃に押され、
さらに南へ敗走。
1月5日、幕府の味方であった淀藩の淀城へ援軍を求めるが、
この日、新政府軍に錦の御旗が掲げられる。それを見た淀藩は、新政府軍へ寝返った。
同じころ、伏見の千両松でも激戦が繰り広げられたが敗北、結果旧幕府軍はさらに南の八幡へ撤退。
1月6日、旧幕府軍は八幡男山のふもとに、東西に分かれて布陣。
しかし、近くの山崎を守る津藩もまた錦の御旗により寝返り、旧幕府軍は大坂へ敗走…
男山での戦闘により、この高良神社も、戦火で焼失します。
現在のお社は、1884年(明治17年)に再建されたものだそうです。
仁和寺の法師が、本社と間違えるくらいなのですから、元々のお社は、もっともっと壮大なものだったのでしょうね。見てみたかったです。「頓宮」
石清水八幡宮の「御旅所(おたびしょ)」です。こちらも、鳥羽伏見の戦いで焼失し、1915年(大正4年)に再建されたものだそうです。
*御旅所*
神社の祭礼の際、神様(神輿)が休憩または宿泊する場所のこと。
そして、ようやく「一ノ鳥居」まで来ました。
こちらが表玄関ですので、本来はこちらから参拝します(汗)
八幡宮の「八」の字が、鳩2羽になっています!
境内を出てすぐの道のマンホールにも…可愛いですね♡
そういえば、本殿のこちらにも鳩が2羽いましたが、お気づきになりましたか?なぜ鳩かというと、八幡大神様のお使い(ご神使)が、鳩であるからなのだそうです。
さて、維新土曜トークもたけなわですが、木村学芸課長は最後にこちらをご案内くださいました。
こちらは、鎌倉時代に造られたという、「五輪塔」です。なんと、高さが6メートルもあります。
下から、「地・水・火・風・空」という「宇宙の五大要素」を形に表しており、この「五輪」をあわせて「全ての徳を備える」という意味を持つのだそうです。
「宋(中国)と貿易をしていた尼崎の商人が、石清水八幡宮に祈り海難を逃れたため、感謝の気持ちを込めての建てた」と伝わることから、「航海記念塔」とも呼ばれているそうです。
ここには、幕末まで、極楽寺(石清水八幡宮に付随して建てられた寺)があったということですが、極楽寺も鳥羽・伏見の戦いで焼失、こちらは再建されることなく、廃寺となってしまいました。
こんなに大きな石を、鎌倉時代に、どうやって積み上げたのでしょうね!千年近くの間、地震や台風にも負けずに、ここにいらっしゃるのですね。
さて、最後に…
石清水八幡宮門前の名物、「走井餅(はしりいもち)」のご紹介です。
江戸時代中期、大津にて、天皇の産湯にも使われたという名水「走井」を使って餡餅を売り出したのが始まりだそうです。もともとは大津の名物だったのですね。安藤広重氏の「東海道五十三次」の大津宿にも描かれているそうです。
今回は食べられませんでしたが、次回は必ず・・・!
今回は、石清水八幡宮のことをたくさんたくさん、学ぶことができました。
幕末の動乱との関わりを、またはちまんさんの魅力を、その場を歩きながらを知ることができて、大変貴重な体験でした。
霊山歴史館 木村学芸課長さま、本当にありがとうございました。
長い歴史をもつやわたのはちまんさん、まだまだ私の知らないことがたくさんあると思いますので、ぜひまた、訪ねたいと思います。
(*^^*)