幕末動乱の石清水八幡宮(前篇) | 京一花日記帳

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先週土曜日の12月7日、

霊山歴史館主催、第61回維新土曜トーク現地講座「幕末動乱の石清水八幡宮を歩く」に参加しました。

歴友pちゃんも一緒です。


「維新土曜トーク」は、幕末・維新に関する講演会であったり、歴史館の学芸員の方の解説を聞きながら幕末・維新に関わりのある場所を訪ねたりするという、 なんとも贅沢!な行事です。


*石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)*


●京都府八幡市の、「男山」という山にある。

(八幡市といえば、先週訪れた京田辺市の北側(京都市側)に位置している市)


●「男山」は、都からみて裏鬼門(西南の方角)にあり、

鬼門(東北の方角)の比叡山延暦寺とともに、都を護る社として、広く崇拝されてきた。


●平安時代、一人の僧が、「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という八幡大神様のお告げを受けたことから、時の清和天皇の命により、この地に社殿を造ったのがはじまりだそう。

このことから、清和天皇の嫡流である源氏一門もまた、八幡大神様を氏神として崇めた。


●清和源氏(清和天皇から分かれた氏族)の足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏なども同様に崇拝したため、武運・必勝の神様として知られている。ちなみに、厄除けの御利益もある。


●御本殿には3つの神様、総じて「八幡大神様」がいらっしゃる。

939年に平将門・藤原純友の乱が起こった際、朝廷が八幡大神様の御神威をもって鎮まることを祈願した結果、見事平定がかなった。

以来、国家鎮護の神様として、皇室の崇敬をあつめてきた。

天皇の行幸や上皇の御幸は、伊勢の神宮に次いで多く行われてきたのだそう。


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●幕末の動乱の中、孝明天皇もその習わしにならい、1863年4月、攘夷祈願に訪れている。

…が、これは尊攘討幕派(特に長州藩)、また彼らとつながる攘夷派公卿らの陰謀であった。


将軍家茂公を石清水八幡宮へ呼び出し、神前で、攘夷の節刀(天皇が出征する将軍に持たせる、任命の印としての刀のこと)を孝明天皇から授けさせ、幕府に攘夷決行を約束させることが狙い。


孝明天皇は、1か月前に御所北の賀茂神社へ、家茂公を従えて攘夷祈願に行幸したばかり。

家茂公が上洛している間に、天皇があちこち連れまわすことで、何とか天皇の権威向上と幕府に攘夷を実行させようとする、攘夷派の策略があった。

しかし、家茂公の後見職であった一橋慶喜氏は、この策略を見抜いていた。


孝明天皇(というより、攘夷派公卿ら)に、石清水八幡宮への行幸に呼ばれたが、家茂には仮病を使わせ?向かわせず、代わりに赴いた慶喜氏も、仮病を使って?神前には現れなかった。

この策略に乗ってしまったら、幕府が今後どれだけの窮地に立たされるか、のちの将軍慶喜公はよくわかっていた。


(石清水八幡宮hp、同行くださった木村武仁学芸課長のお話より)

 

ヒヨコ


前置きが長くなりましたが(汗)、そんな幕末動乱の舞台でもあった、石清水八幡宮を歩く講座です。

今回も、木村武仁歴史館学芸課長がご同行くださり、私のような素人にもわかりやすく解説くださいました。ありがとうございます。


京阪電車「八幡市駅」で、集合しました。たくさんの方々が集まっていらっしゃいました!


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石清水八幡宮の表参道は、上の「一ノ鳥居」が建つ場所にあり、本来はそこから参拝するのですが、私たちは、「男山ケーブル」で、一気に山頂へ向かいました。


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ケーブルからの眺め!絶景だー


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男山山上駅から、鳥居をくぐって・・・


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この「西ケーブル参道」という参道を通って、やってきました。山上の玄関口、「南総門」です。


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その先には、「八幡造り御本殿」です。


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みなさま、この写真から、違和感を感じましたか?

そう、この御本殿は、あえて、総門と斜めに向かい合うように、建てられています。


参拝を終え、総門へ向けて帰路に着く際、八幡大神様に、おしりを向けることのないように、とのご配慮だそうです。目から鱗です…!


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一つ一つの彫刻、細工が本当に美しく、目を奪われてしまいました。


境内をぐるりと囲む土塀は、織田信長公が1580年に寄進されたもので、「信長塀」と呼ばれるものです。


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御本殿の後ろにまわると、「若宮社」 (男性の守護神。仁徳天皇を祭神とし、祈願成就、学業成就のご利益があるそうです)

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その右隣には、「若宮殿社」 (女性の守護神。応仁天皇の皇女を祭神とし、祈願成就、心身健康のご利益があるそうです)がありました。


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男女でお社が分かれているなんて、すごく珍しいですよね。


この若宮殿社のちょうど東北(右後ろ)側は、この御本殿からみて、「鬼門」(牛の角を持ち、虎の皮を身にまとった鬼が来るといわれる丑寅の方角)にあたります。

今回は見られませんでしたが、境内を囲む外側の石垣のその部分は「鬼門封じ」と呼ばれ、石垣の角を切り取った造りになっているそうです。 石清水八幡宮のhpで、お写真を拝見できます♪


樹齢700年!の御神木、「楠」です。


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1334年、楠木正成公が必勝を祈願し奉納した楠と伝わり、現在は京都府の天然記念物だそうです。

700年もの間、ここで、人間の起こす数々の動乱を、ご覧になってこられたのですね。


次に、「裏参道」を歩いて、「展望台」を訪れました。 ここからの眺め… 素晴らしいの一言です。


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淀川を挟んで、(幕末の舞台でもある)「天王山」が見えました。思っていたよりすごく近くて、驚きました。

手前から二番目の山が天王山です。↓


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さらに、東北の方角(鬼門)には、石清水八幡宮とともに都を護る、延暦寺のある「比叡山」が見えます。↓


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肉眼では、まさにここと比叡山との間に、小さく京都タワーが見えました。

二つの山が、都を見守るようにあり、本当に京の都をお護りくださっていることを感じました。


さて、この展望台には、「谷崎潤一郎文学碑」が建っていました。


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谷崎氏の小説「蘆刈」の舞台になったのがこの地であり、その一節(ご本人の字)が彫られていました。 1986年、谷崎生誕百年の日に八幡市が建立したものだそうです。
谷崎氏、1923年の関東大震災のあと、京都へ越して来られていたのですね。存じ上げませんでした。

文学といえば、 ここ石清水八幡宮は、鎌倉時代の吉田兼好氏の随筆「徒然草」で、 仁和寺の法師のぬけた様子(笑)を描いた部分でも、登場していますね! 高校時代に習った古文を思い出します。


長くなりましたので、続きは後篇にて…。