酬恩庵 一休寺 | 京一花日記帳

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*京都や幕末、日々のことを綴っています。ご訪問ありがとうございます*

今年も、残すところあと3週間余り…。早いものです。

今日の京都は、わりと暖かい一日でしたが、皆さまのお住まいの地域はいかがでしたでしょうか?

暖かかったり寒かったりと、体調を崩しやすい天候が続いていますね。


忘れないうちに、伏見稲荷神社の続きです。

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酬恩庵 一休寺」 (しゅうおんあん いっきゅうじ)


そう、あのとんちの一休さんがいらしたお寺です。 紅葉が綺麗だという友達の提案で、行きました。


ここ酬恩庵は、京都市の外、京田辺市にあります。

京田辺市の場所をご存知ない!? そんなあなたに、こちらです↓


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電車で揺られる間に、ずいぶん南まで行ったものです。

私にとって、記念すべき初「京田辺市」となりました。京都府の地図を見ているだけでトキメきます(笑)行ってみたいところだらけだ~!


近鉄の、「新田辺駅」に到着です。


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駅前に、さっそく一休さんがいらっしゃいましたよ。


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ここから、バスで酬恩庵に向かったのですが…、行き方がすごく、わかりづらかったです(爆)

友達がいなかったら、絶対辿りつけなかった…。 ありがとう!


バス停から歩いて歩いて、到着です!

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ここ酬恩庵は、もともと、「妙勝寺」というお寺でしたが、戦火で荒廃してしまっていました。

それを、六代の法孫(教えを受け継いだ者)にあたる一休宗純禅師(1394年-1481年)が、1456年に再興しました。

師恩に報いる意味で、「酬恩庵」と命名されたそうです。この時、一休禅師63歳。

88歳で病没されるまで、こちらで過ごされました。今も、ここで静かに眠っておられます。

亡くなられたのちも、一休禅師を慕っていた多くの文化人が集まり続け、いつしか一休寺と呼ばれるようになったそうです。


全景


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参道のもみじに、目も心も奪われます。


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こちらの奥に、一休さんが眠っておられます。


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一休さんは、後小松天皇(金戒光明寺山門の額を書かれた天皇)の実の息子であるため、

皇族として、宮内庁が管理しています。 門に「十六八重表菊」が施されていますね!


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ヒヨコ 一休さんは、天皇の子でありながら、なぜ僧になられたのか?気になって調べました。


一休さんの母は、後小松天皇の寵愛を受けていましたが、それを妬んだ者たちの陰謀により、宮中を追い出されてしまいました。

その後、嵯峨の民家で一休さんを生んだ母は、その将来を僧侶にと願い、一休さんが6歳の時、「安国寺」(当時、京都壬生村にあったお寺。応仁の乱で焼失)へ入門させたのだそうです。


私たちが一休さんのアニメでよく知る「一休さんのお寺」は、一休さんが子ども時代を過ごしたその安国寺であり、ここではありません(汗)


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こちらが、本堂です。


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そして…ついに、一休さんとご対面です。


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何とも賢そうなお顔立ちです。

幼い頃より詩才に優れていたそうですが、実際、とんちのほうも優れていたのでしょうか?

その後ろには…


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「はし」は渡らず、「はし」を渡りました。( ´艸`)


ここにも一休さん。さきほどの一休さんと比べると、ずいぶんお歳を召されて…。
実際にここに住まれるようになった、晩年の一休さんでしょうか。


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一休さんは、実は奇抜な行動が多かった方と聞いたことがありますが、どうだったのでしょう。


その後、「庫裏(くり)」(寺院の僧侶の居住する場所)へ上がらせていただきました。

この「虎の屏風」は、まさか、あの…!?∑(゚Д゚)


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(そういえば、参道近くでこんなものも ↓)


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庫裏から続いて、「方丈」(本堂、客殿、住職居室を兼ねるもの)へ。


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「方丈庭園」 江戸時代初期の、禅院枯山水庭園です。

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木の床が、とてもとても冷たくて、足の感覚がなくなりそうでした。

でも、これが自然なのですよね。現代の生活が、恵まれすぎている。


ここ酬恩庵は、静かで厳か、それでいてなぜか落ち着く、そんな場所でした。 また違った季節にも訪れてみたい、そう思いました。

一休さん、ありがとうございました。



*おまけ*

帰りの京都駅の、クリスマスツリーキラキラ


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