後篇です。
*金戒光明寺*
●浄土宗の開祖・法然上人が、比叡山での修業を終え、1175年、43歳で開かれた浄土宗最初の寺院であり、浄土宗七大本山の一つ。
法然上人は、「南無阿弥陀仏」の念仏で皆平等に往生できる、と説いた最初の方。
●江戸時代初期、徳川家康は二条城の非常時のために、それとはわからないように、城構えに改造した。
同じく浄土宗の知恩院もそうさせた。
●幕末、京都守護職が置かれると、会津藩はここを本陣とした。
理由としては、
・城構えであること、
・高台にあり、同じく京を見守る二条城や知恩院との間に、東海道から京へ入る際に通る「三条通」、
そして「御所」が位置しており、ここからしっかり見張りつつ、緊急時にはすぐに赴ける距離であること、
・4万坪という広大な寺域内にある大小50余りの宿坊を、軍隊の寄宿に使用可能であること、
などがあった。
1862年、会津藩主松平容保公は、千人の兵を従えてこちらに入った。
このことから、幕末の時代に亡くなった会津藩士やその関係者を供養している。
●ここは「新選組」誕生の地でもある。
1863年、上洛した浪士組の芹沢氏・近藤氏らが京都守護職に京都残留嘆願書を提出し、京都守護職お預かりとなった。
その4日後には芹沢氏・近藤氏がここで松平容保公に謁見。その年の八月十八日の政変ののち、「新選組」の名を拝名、市中取締の命を受けた。
壬生の新選組屯所とここ黒谷本陣の間では、報告・伝達が毎日のように行われていた。
(金戒光明寺hp、ガイドの方のお話より)
1.「高麗門」から参詣しました。
参道のつきあたり(現在地)に、「金戒光明寺 全景」がありました。とにかく、広いんです。
小さくて見にくく申し訳ありませんが、この番号順に巡りましたので、ご参考まで。山門は、応仁の乱(1467年-1477年)で焼失したのち、ずっと再建されませんでしたが、幕末の1860年に現在のものが再建されました。
その2年後、京都守護職松平容保公がこちらに千人の会津藩兵を連れてやってきますが、容保公も、できたばかりのこの山門に登り、京の治安を確認されたに違いありません。
楼上の正面には、後小松天皇が書かれたという「浄土真宗最初門」とある勅額が、大きく掲げられています。
<後小松天皇>
1377年-1433年。歴代第100代!の天皇であり、あの一休さんの父上とされるお方です。
この山門、2年前の2011年、瓦屋根が剥がれたことが確認され、1860年に完成してから初めての、150年ぶりの大修復が施されました。
約4万枚の瓦をすべて葺き替え、耐震工事もされたとか。
そして2年後の今年2013年秋、修復工事完了を記念して、山門が特別公開されています。(2013年12月8日まで)↓この階段を登って、山門2階に上がることが許されました。
かなり急な階段でしたが、2階からの景色は、まさに絶景でした。
写真撮影が禁止でしたので、言葉でしかお伝えできないのが残念です。
最初に書いたように、知恩院、御所はもちろんのこと、遠くは京都タワー、天王山!まで見渡せました。
長州藩邸跡に建つホテルオークラのせいで、二条城は見えなくなっていました。(爆)当時は、二条城、三条通も含めて、まさに京の町を見渡すことができたことが想像できました。
山門2階部分の天井には、幕末の絵師によって描かれた「蟠龍(ばんりゅう)図」があります。
蟠龍(ばんりゅう)とは、天へ昇る前の、まだ地上でとぐろを巻いている龍を言うそうです。
鳴き龍など、お寺に龍の絵が多いのはなぜか、皆さまご存知ですか?
ガイドさんの説明によると、日本における仏教の守護神が龍であるほか、龍は水の神様でもあり、寺を火から守る意味もあるのだそうです。
また山門2階には、釈迦三尊像や十六羅漢像がありました。
十六羅漢像の第十一番、「羅古羅尊者」は、お釈迦様の実の息子だそうですよ!
※「朝日新聞digital」 2013年10月25日の記事で、貴重な山門2階部分の動画が見られます。ご興味のある方はぜひお訪ねください!
山門の興奮が大きくて、長くなりました。 山門を出て、階段をさらに登ると、3.「納骨堂」
4.「阿弥陀堂」がありました。
この「阿弥陀堂」の真向いの、5.広場で、粕汁とみたらし団子をいただきました。(どっちも食べたかった 笑)
腹ごしらえを済ませて、いよいよ、6.「御影堂(本殿)」へまいります。(残念ながら金戒光明寺内でもこの御影堂、そして大方丈のみ、昭和9年(1934年)に焼失し、2年後に再建されています。)
ここから先、建物内部は撮影禁止でしたので、ぜひ直接足を運ばれてください。
「御影堂」には、法然上人七十五歳の御影(坐像)や、観音様が奉安されておりました。
そして、渡り廊下を歩いて、7.「大方丈」へ移動します。
芹沢鴨氏・近藤勇氏が松平容保公に謁見した「謁見の間」は、ここにありました。「新選組誕生の場」という看板とともに、公開されていました!
このお部屋では、公開期間中、松平容保公や新島八重さんの直筆の和歌、会津藩士の鎧兜などを拝見することができます。
さらに、大方丈の角部屋「虎の間」では、不思議な仕掛けが施された虎の襖絵がありました。来客用の待合室ですので、芹沢氏、近藤氏も、待つ間この襖絵に和んだのかな、と想像しました。そして、奥に広がる、8.「紫雲の庭」です。
法然上人の生涯と、浄土宗の広がりを、枯山水で表現しているのだそうです。
なんと、桜が咲いていました。紅葉と桜、何とも贅沢な一枚。 そのさらに奥に広がる、「方丈北庭」。 法然上人もご縁を大切に想う方であったことから昨年2012年に設えられたという、「ご縁の道」です。
このお庭にある、ハート形の石は、「人生を迷いながらも懸命に歩んだからこそ感じることができる熱い心」を表現しているそうです。 これは、「ご縁の道」リーフレットの抜粋です。↓ 非常に共感し心に響きましたので、書かせてください。
~「ご縁」とは、仏教の基本的な考え方「縁起」の法で、すべての事柄は色々な因縁によって成り立っている。言い換えれば、それぞれが様々な条件によって変化し単独で存在するのでなく、相互に依存し合っていることを言い、偶然とかたまたまとかいう言葉は、仏教的な考え方では必然であり因によるものである~
足元に目を向けると、模様がとってもかわいかったです。
9.「寺務所」、10.「清和殿」を通って、屋敷内の見学は終了です。
この後、11.「極楽橋」を渡り、さらに階段を登った先にある文殊塔(三重の塔)を目指しました。
織田信長公の妹、お市さん三姉妹の末っ子、お江さんの供養塔もありました。
階段の途中で、こちらの方と遭遇です。
山門のあたりで、「アフロヘアの石仏様がいらっしゃる」と耳にして、気になっておりました。
JR東海「そうだ、京都、行こう」キャンペーン20周年記念のスタンプコレクション、金戒光明寺のスタンプも、こちらの方なのですよ!
正式には、「五刧思惟阿弥陀如来像」とおっしゃるそうです。
金戒光明寺hpによると…
●五刧の刧というのは時間の単位。
一刧=「四十里立方(約160㎞)の大岩に、天女が三年(百年に一度という説あり)に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩がついに無くなるまでの時間」
●それだけの長い間、思惟をこらし修行をされた結果、髪の毛が伸びて渦高く螺髪を積み重ねた頭となられた様子をあらわしたのが五劫思惟の阿弥陀仏で、大変珍しいお姿
●私達衆生がお念仏を称えることによって極楽浄土に往生出来るのも阿弥陀仏が永い修行を重ねられた結果
なのだそうです。お会いになった際には、ぜひ「南無阿弥陀仏」をお唱えください。
文殊塔まで登る前に、左へ曲がり、12.「西雲院」
そして、13.「会津墓地」へお参りしました。
ここには、武士だけでなく、下に仕えた者や、婦人も含まれているそうです。
さきほどの「西雲院」では、毎年6月、会津松平家第十四代当主松平保久(もりひさ)様ご列席のもと、会津藩殉難者追悼法要が催されています。
さらに先へ進むと、こちらも紅葉で有名な、「真如堂」に続いていましたので、ちょっと寄り道。 くろ谷さんも人は多かったですが、こちらはさらに混みあっていました。
満足。来た道を戻り、最後の14.「文殊塔(三重の塔)」に到着です。
振り返って、市中を望みます。
このくろ谷さん、本当に高台に位置しているんですね。
階段両脇にあるお墓はみな、西を向いていますが、それは西方に極楽浄土があるとされるからだそうです。お読みいただきありがとうございました。