京都御所 秋季一般公開 | 京一花日記帳

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チューリップ黄京都御所 秋季一般公開


・場所 : 京都御所 (京都市上京区)

・目的 : 秋季一般公開参観


京都御苑に到着です。


丸太町通り、境町御門から参入したつもりでしたが…

その後地図を見ると、その東側、冨小路口であったことが判明しましたorz


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歩いていくと、右手に大きな囲いが見えてきます。 これが、御所・・・!!!


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と思ったら、違いました(;^_^A こちらは、仙洞御所・大宮御所でした。(おい)


*仙洞御所*

もとは江戸時代初期、皇位を退かれた後水尾上皇の御所だったが、現在は庭園のみ。


*大宮御所*

もとは皇太后などの女院御所、現在は天皇陛下や皇太子殿下の入洛の際の宿泊所


御所の一般公開は、春にも来ているというのに、この抜けっぷり… 気を取り直して、御所へ向かいます。

そして、いよいよ来ました、御所南側の御門、「建礼門」です。


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1863年8月、八・一八の政変にて、壬生浪士組は会津藩の命を受け、御所の守護に参上しますが、

浪士組のことについて聞いていない会津藩下級役人に、それを拒まれます。

そこで芹沢鴨氏が一喝、この門を通ることを許される・・・

実際に浪士組が守ることになったのは、付近の「御花畑」でしたが、その功績により、「新選組」の名を拝命することになります。


その御花畑、どこにあるのかな、と話題になったのですが…

昨年、幕末歴史ツアー(御所編)に参加した際にいただいた、 「慶応二年(1866年)一月御所付近の図」に、載っておりました。


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建礼門(南御門)の、目の前だったのですね。

「御花畑」について、詳しく知らなかったので、この機会に調べてみました。

*御花畑*

凝華洞(ぎょうかどう)という屋敷のこと。

会津藩主松平容保氏が、多忙のため京都守護職屋敷(黒谷・金戒光明寺)へ帰れないときに、

宿舎として使用していた。


翌年の禁門の変では、病気が進み、起き上がることも難しくなった容保氏が、ここ凝華洞に陣を敷き、長州軍征伐のために指揮をとっていたのです。

八・一八の政変時、容保氏がそこにいたかどうかはわかりませんが、藩主の宿舎を守るという意味では、浪士組も誇りを持って守護にあたったのではないでしょうか。


現在、跡地には石碑が建っているとのことです。気付かなかった・・・


いよいよ、御所の参観です。


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御所西側の門、「宜秋門(ぎしゅうもん)」から、参入いたします。


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宮内庁の陣が、敷かれていました。←


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この先の写真は、畏れ多くも御所の内部ですので、やめておこうと思います。


(私の写真では、素晴らしさを伝えきれない自信ヒヨコがあるので…)


すべての空間に厳かな雰囲気が漂っていて、当然ながら、俗世間とは違った空気が流れていました。

壁や襖に描かれた画が素晴らしく、植えられている松の木ひとつとっても、佇まいが美しいのです。

ぜひ、実際に足を運ばれて、ご覧になってください。


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たっぷりと堪能して、「清所門(せいしょもん)」から、退出します。


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そして、帰りに、禁門の変で最も激しい戦いが繰り広げられた、蛤御門へ。


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門の梁に、禁門の変でついた鉄砲の跡が残っています。


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銃痕を確かめる?青年たち。気になりますよね。

銃痕について、「ちょうど人の身長くらいの高さまであるね」とpちゃんに言われて、納得。

この蛤御門は、当時はもう少し東のほうに(御苑内)、北を向いて建っていました。

(上の当時の地図でも確認できます)


ここで凄まじい銃撃戦が繰り広げられたとは・・・

現代の空気が平穏すぎて・・・なかなかすぐには想像できません。いいことなのでしょうね。


長々と読んでいただいた方、ありがとうございました(*^.^*)


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