「自分磨き」をしたい人のためのブログ ~よりよい生き方~
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「武士の一言」という言葉があります。かつて、侍の言葉による約束には責任があり、証文以上の信用がありました。そして、一度口にした言葉を翻すようなことは決してありませんでした。一たび放った言葉や約束を反故にすることは、責任や名誉、義理や礼儀を場合によっては自分の命より重んじる武士にとって、ひどく恥ずべきものでした。

現代においては、言葉に責任を持たなかったことで命まで落とすことはありませんが、それでも自分の言葉に責任を持つということは、自分の思考を外に表明したものとして、自分自身をかたどったものなので、自分というアイデンティティを持つ上においても、他者との信頼関係を築くことで、より自分が幸福に生きる上でも大切なことだと言えます。

そのため、何らかの約束などの言葉を交わすときや、何らかの立場を表明するときには、自分の言葉に責任が帰属するものということを意識し、十分に言葉を選ぶ必要があります。

いい加減な気持ちでの約束や、他者批判など、自分に跳ね返ってきたときに責任を持てない言葉であれば、口にしない方が、まだましでしょう。いわゆる自分の事を棚に上げて物言う人、二枚舌の人、口だけの人、と言われかねません。あなたの思惟から生まれた言葉が、そのように評価され自分に還ってくることは、自分自身にとってよりよいこととは言えませんね。

で、あるなら、やはり自分の発する言葉は、十分に考えてから選び、そこに普遍的な責任をもつべきでしょう。

常々、言葉にすることに責任を持つ人であれば、「あの人の言う約束だから間違いはない」と信用を得ることができます。そのような人は、他者からどんどん信頼され、逆にその人が困ったときには、周囲に助けの手を差し伸べてくれる多くの人に恵まれるでしょう。また、逆に言葉に責任を持つような人との約束であれば、自分も襟を正して言葉に責任を以て付き合いを持たなくては、となることとなり、いい加減な真似はしないようになりますね。そうすると相互に誠実で良好な人間関係を築き上げてゆくことが出来ます。いつも自分の言葉に誠実である人とそうでない人、あなたはどちらの人と身近な間柄でありたいと思うでしょうか?

 

一度口にした言葉に責任を持つということは、他者に対する責任であると同時に、何より自分自身に課された責任なのです。決して離れることのできない自分自身という存在に真摯に向き合い誠実に付き合い、その自分の思惟するものに責任を持つこと、それは、「自分を持つ」ということにも繋がりますし、見える形としての他者からの自分への信頼、信用へと結びつき、あなた自身のよりよい生き方へと拡がりをもってゆくこととなるのです。

できない約束をしたり、場所や相手によってまったく違うことを言ったり、前提条件が変わったわけでもないのにころころと言うことを変えたりするようなことのないよう、言葉を口にする時には充分に気を付けたいものです。

その場にいない第三者の話をする時には、必ずその人が目の前にいると思って言葉を選び話をするようにしましょう。その場にいない人のことを言いたいように言える場でこそ、その意識は大切です。

ついつい、その当人がいないからと、その人を誹謗中傷したり、陰口を言ったりすることは以ての外です。その当人を目の前にして言えないことならば、決してその人がいない場でも口にするべきではありません。知られることはないから、と高を括っても、必ずあなたの言葉は当人の元へと届いてしまいます。そのような言葉は、あなた自身の心を良くなくしますし、他者はあなたを信用に値する人とみなさないでしょう。何一つ良いことはありません。

まず、第一に、その当人がいようといまいと、人を否定する言葉、中傷するような言葉を口にすることは、あなた自身をネガティブにしてしまいます。これは、前回にお話しした、よい言葉を選び話すこと、でもお伝えした通りです。これは、他者に限らず、自分自身に対してもいえることでしょう。

そして第二には、あなたの話す第三者の中傷を相手が耳にしたときに、その相手が仮に同調したとしても、まず思うことは、「私の事も同じように、私のいないところで中傷しているのではないか?」といったことなのです。もし、あなたの話した相手が、あなたの話を当の本人に伝えたり、また他の人に話したとしたらどうなるでしょう?人の噂話など、瞬時にして周囲に伝わってしまい、ゆくゆくその中傷した相手のの元へと届きます。

誰かが誰かを中傷しながらの人間関係は、疑心暗鬼を生み、気が付けばあなたの周りには誰も信用できない人だらけになるでしょう。そしてあなたも信用されません。

そのようにならないように、あなたは決して、当人のいないところで、聞いたらその人を傷つけるような言葉、良くない言葉、不当な評価、馬鹿にした言葉、否定した言葉などは用いることのないようにしましょう。

そのために、第三者の話が出たときには、常に意識的に、その人が目の前にいると思って言葉を選んでください。

また、逆に他者を中傷するような話を好み、あなたに持ち掛けてくるような人は、あなたの大切な人にはなりません。あなたが第三者とその人を思い、勇気があるのなら、話を持ち掛けてきた相手に同調することなく、その場に相手がいると思って話すこと、の大切さを教えてあげてください。同調したときにあなたは、そのような話をしてきた人と同じになってしまいます。同調を得た相手は、あるとき別のあなたのいない場所で、あなたのことをきっとこう言うでしょう「~さんもこう言っていたよ」と。その時点であなたは、あなたにそのつもりがなくとも、同じ他者の陰口を言う人となってしまうのです。

あなたは、他者に迎合してその場を繕い、のちのち思わぬところで他人へも自分へも加害者となりますか?それとも、第三者を慮り、仮に目の前の噂話を持ち掛けてきた相手に嫌われようとも勇気をもってよりよい選択をしますか?嫌われる勇気も時に必要でしょう。それで理解されないようなら、少なくともあなたにとってそれは良い友人ではありません。あなたが悪くある必要性はどこにもあないのです。

 

この他、似たようなもので、よく耳にする「ぜったい他の人に話しちゃだめだよ」と前置きされた話も、それを聞いたり、それについて意見を述べることは全くと言っていいほど必要無いでしょう。場合によっては、その言葉は「他の人にも話してね」という言葉だからです。本当に誰にも話せないことならそもそも話さないのです。そして、その前置きの言葉を使っているということは、すでにあなたが誰かに話す可能性があるものだと思っているからなのです。だからこそ、そのような前置きを言う。本当に決して誰にも話さないと思っている人に対して、わざわざ話してはいけないなどと言う必要があるでしょうか?

そして、それを言う人は、必ず誰にでも同じように、「誰にも話してはならない」話を個々にばら撒く様に話しているはずです。この言葉を多用する人に対してあなたは、決して他の誰にも知られたくないような話はしない方がよいでしょう。

このように、当の本人がいない場での、噂話や誹謗中傷はあなた自身をよりよくするものではありませんので、常々気をつけることが肝要です。

(4)‐①で述べた、きれいな言葉遣い、に似ていますが、ここでは「よい」言葉をできるでけ使うことを心がけることについて書きます。これはさほど難しいことではありません。きれいな言葉遣いは勿論の事、言葉を選ぶ際には、できるだけ前向きで肯定的な言葉を使うようにしよう、ということです。反対に、ネガティブで否定的な言葉は、できるだけ使わないようにする方が、よりよいとも言えます。

このことは、外部という他者への影響をよりよくすることにとどまらず、これまで述べた見た目(=外部へと表出されたもの)の中でも、最も直接的に自分の内面へと反響を及ぼすものです。

では、具体的には、どのように言葉をよりよいものへと変換するとよいでしょうか。

例えばですが、ある人がスポーツが好きで、その楽しさや良さについて話しをしていたとしましょう。しかし、あなたは、スポーツが得意ではなく正直嫌いだったとします。どのように答えることがよいでしょうか。単に、「私はスポーツは嫌いなので」で終わらしてしまうと、そこで話も終わり、会話自体も面白味のないものとなってしまいます。相手も面白くないでしょう。そうすると...これまで何度も述べたように、それは自分へと跳ね返ってきます。あなた自身、その会話は面白くないものとなっていしまいます。

で、あるのなら、少しでも快い会話ができるよう心掛けるべきではないでしょうか。

「正直スポーツは苦手で、好きではないのですが、仰るような~の部分は楽しいところなんだと思います。」とでも言葉を選ぶとどうでしょう。好きではないものの相手の話す肯定的な部分を捉えて、最終的にある点を楽しいものだと思う、とプラスの話で意見しています。そうすると相手はその言葉を拾い、その楽しいという部分から更に話を広げてくれるでしょう。そのとき、すでにあなたは、あなたが楽しいと思われる部分について話をされている訳ですから、きっとあなた自身、そこからの会話は興味深いものとなるでしょう。このとき、気を付けたいのは、思ってもいないことは言うべきではありません。それは只の相手に対する迎合でしかありませんので、あなたの気持ちや感情を伝えることとなっていないと言えるでしょうし、楽しいとも思えない部分について重ねて話をされても、ますます興味を失いあなたは面白くない。すると...もうわかることですね。

そのため、相手のする話の中で、何が良いところなのか、自分にもわかるようなところはどこか、といったことに注意を払わなくてなりませんよね。会話においては、話すよりも聞くことが大事だと言われるゆえんは、そのようなところにあるのではないかと思います。

また、「~はつまらない」「~は嫌い」「~はよくない」「~なんて出来ない」といった単純に否定的な言葉やマイナスの言葉を用いずに「~は楽しい」「~なら好き」「~の方がよい」「~ならできる」など言い換えて使うことは大事です。

更に例のように、否定的な事柄を話すときにも、常に最後にその中の良い部分で言葉を終わらすことも大事です。全体を否定的なものと捉えていても、部分に必ず肯定的なものがあるものなので、話の後段に肯定的な言葉を持ってくるということです。

「登山では、頂上での達成感は気持ちいいけれど、疲れるから好きじゃないんだ!」

「登山は好きではないけれど、頂上での達成感は何とも言えないよさがあるよね!」

実際には同じことを言っていても、その聞こえ方は全く違ったものとなります。このことは、仕事で叱らなくてはならない場面でも役に立ちます。

「あなたの~なところは良いのだけれど、~なところが間違いなんだよ。」

「あなたの~なところは間違っている。せっかく~な良いところがあるのだし。」

どうでしょう、受け手側の捉え方は随分とちがったものとなるでしょう。

このようにできるだけ、会話の中での良い言葉を拾いだし、良い言葉を選び使うように話し、言葉の順序を選んで話すこと、このことは前回お話しした、一言を添えることのように一度言葉の前に思考を働かせなくてはなりません。ですので、自分の内面へと強く影響します。

そしてこれが思考内での一人称の時には、更なる効果を発揮します。

「今日は~をできなかった。だから明日もきっとダメだなぁ」

「今日は~が出来ず失敗した。でも~の部分は良かったから明日には出来るようにしよう」

これは目に見えないものの話になってしましますが、このような考え方は、起きた物事に対してだけでなく、明日への過ごし方をより良いものへと自分自身で前向きに切り開いていく思考になってゆきます。

更には、繰り返し良い部分や言葉を選び口にをすることで得られること、それは他者の良い部分を見つけることが容易になることです。それが出来ると人間関係の悩みも減り、快適で良好な人付き合いができるようになりますね。それは結果的に自分自身がよりよく生き、過ごしていくことに他なりません。

 

 

 

 

ありがとう、という感謝やお礼の言葉は、前回お話しした通り、自分と他者との繋がりをとても良好な関係にするものです。

ここでは、感謝やお礼の気持ちを更に上手に言葉や行為に乗せる伝え方について書きたいと思います。

大事な点は、二つです。一つは、ありがとうの言葉に続いて一言添えること。もう一つは、重ねて礼、感謝の言葉を伝えることです。

 

今では、メールなどとても便利なものがあるので、容易に気持ちを伝えられる分、その際のひとつひとつの言葉は、会話をする時以上に選ばなくてはならないでしょう。なぜなら単純に会話を違い、簡素なものでも形として残るものだから、見返せてしまうものだからです。

では、食事会などでご馳走になった後を例としてみましょう。

「今日は、ごちそうになり、ありがとうございました。」

「今日は、ごちそうになり、ありがとうございました。とても楽しい時間を過ごさせてもらいましたので、また機会がある時には是非お誘いいただけたらと思います。」

何かを頂いた時の例も挙げましょうか。

「昨日は、素敵なプレゼントをありがとうございます。」

「昨日は、素敵なプレゼントをありがとうございます。思いもよらないお祝いをしていただき、とても嬉しかったです。大切に使わせていただきますね。」

少し言葉が固いでしょうか。とはいえ、各々の前者と後者、どちらが感謝の気持ちが伝わるかは、一目瞭然ですよね。

仮にくだけた仲同志の間柄であったとしても、このように一言添える礼の言葉の有無は、印象も、受け手の捉え方も大きく変わってきます。むしろ、身近な間柄でこそ、これは是非実践する癖を身に着けたいものですね。親しき中にも礼儀あり、とはよく言ったものです。

 

この一言を添えるにあたり、あなたは一度、「ありがとう」のその中身を必ず考えるはずです。それこそが、気持ちや感情といった見えないものを具体的な言葉という形に具現化することなのです。

この、ちいさな繰り返しが、やがてあなたの思惟するものを上手に表現することへ結びつきます。「そういうつもりで言った訳じゃないのに」とか「言いたいことは、そういうことじゃないんだ」といったことが少なくなってきます。つまり、本当に思うこと、伝えたいことを相手がきちんと解ってくれるようになるということです。

より自分を理解してくれる人が、より多く身の回りにいること、それは幸福以外の何物でもないのではないでしょうか?

 

さて、一言を添える他のもう一つの大切な礼の伝え方、重ねて伝えることについてです。

先の食事会の例に沿ってみましょう。

簡素でタイムラグのないメール等の方法で、礼を伝えたのなら、次回その相手と直接顔を合わせたときに、もう一度、お礼を伝えることです。

なぜ、繰り返すのかというと、この例の場合においては、二つの意味があります。

一つは、食事会の席などでは、お酒を飲んでいたりすることもあるので、あなたも相手も、その記憶が明瞭でない可能性があるからです。翌日見ればわかることだ、とは言えますが、お酒の入った状態での感情のやりとりは、よいものであってもそうでなくても、さしてあてになるものではないでしょう。

そして、もう一つの意味、こちらの方が重要ですが、やはり礼の言葉という大切な気持ちの表現は、直接きちんと伝えたいものです。そのことへの細かな配慮、心配りひとつで、互いの信頼も、よりよく向上することは間違いありません。

 

このように、ふたつの大事な点を述べましたが、ここで、その二つの事の内包する共通点もお伝えします。それは、お礼の言葉にやりすぎはない、ということです。

あまり重ねて礼を伝えることは、いかにもわざとらしく感じられてしまうのでは?と思うこともあるでしょうが、それは単にあなたにわざとらしい思いがそこにあるから、そのように表現されてしまうだけでしょう。自分の気持ちや思いを的確に言葉にして伝えられたお礼や感謝の気持ちは、きちんと相手の気持ちや心の中へと浸透します。

中身のない、ありがとうの言葉の連発や同じ言葉の繰り返しなどとは全く違うものなのです。ここまでに挙げた例のような、お礼の伝え方程度で、気分を損ねる人はいるでしょうか。快く思う人はあっても、そうでない人はまずいないのではないかと思います。

であれば、一言添える、重ねて直接伝えるという感謝の気持ちは、大いに実践するべきでしょう。それが、相手の心をよりよくし、あなた自身をさらによりよくすることの一つなのですから。

言葉の中でも、気持ちを比較的ストレートに表す「ごめん」と「ありがとう」。

それぞれ、お詫びの気持ちと感謝の気持ちを言葉にしたものですが、仕事でもプレイベートでも多用され、一日を過ごすうちで使わない日は無いのではないでしょうか。

この二つの言葉は、とても密接で似ている部分も多く、話の流れ次第で、どちらを使うこともできます。

そこで、どちらも使うことのできる場合、または双方の気持ちが入り混じっている場合の時には、できるだけ「ありがとう」を使い、感謝の気持ちを相手に伝えるようにしましょう。感謝の気持ちは、相手を嬉しくさせてくれます。相手が嬉しくなってくれると、それを受けて更に自分も嬉しい気持ちになります。

 

ある人の、誕生日の直前のことです。プレゼントをあげようと一緒に見に行っていたのですが、その際に自分の物として買おうかな、と思ったものがあったので話をしていると、その人は私の為にそれを買ってくれました。その人の誕生日プレゼントがメインの買い物でしたので、私はとても申し訳ない気持ちになりました。勿論、嬉しかった気持ちもあったのですが、それ以上に相手の誕生日なのに、余計な負担を自分にさせてしまったということに済まないなぁ、と感じていたのです。

「逆に自分の方がプレゼントを貰ってしまい、ほんとにごめん」と申し訳ない気持ちを伝えると、相手の方は、言葉にしない態度で怒り出してしまいました。最初は、なぜ不機嫌なのかがわからず、せっかくの誕生日なのに何が不満なんだろう?と、自分まで気分を悪くしてしまいました。

その後、きちんと話をしようということになり、なぜ急に怒りだしたのかを聞くと、その理由は、素直に喜んでくれなかったことだったということがわかりました。その時、私は本当に相手の気持ちをわかってあげることが出来ていないことを反省しました。

私が伝えるべきだったのは、相手の誕生日なのに逆に自分のプレゼントを買わせてしまって申し訳ない、という気持ちより、単純に自分へのプレゼントに対する感謝の気持ちだったのです。

以来、このことに気づいた私は、仕事でもプライベートにおいても、お詫びと感謝どちらの思いもあり、なおかつどちらを伝えてもおかしくない場合には、「ありがとう」を言うようにしています。例えば、職場で遅くまで従業員ががんばってくれた時、「遅くまで仕事させてごめん」よりも「遅くまで頑張ってくれてありがとう」と伝えるようにしています。

よくよく考えれば、他人より相談を受けたようなとき、その際に「時間をとらせてすみません」と言われるよりも「時間を作ってくれてありがとう」と言われる方が自分自身も気持ちのいいものです。ちょっと物をとってもらったような時でも、「ごめん」より「ありがとう」の方が、お互い気分のいいものではありませんか?

勿論、場面によってはお詫びの気持ちに徹しなくてはならない時もあると思います。しかし、その場合であっても赦しを得たなら、その赦しを得たことに感謝の気持ちを重ねて表すことが出来ます。

「ありがとう」という言葉には、相手を快くし、自分をも快くする素敵な相乗効果があります。

ですので、みなさんもできるだけ「ごめんなさい」より「ありがとう」を沢山つかうようにしましょう。

「ありがとう」という感謝の気持ちの表現ついては、少し手を加えることで更に自分をよりよくすることができるので、それについては、また次回にお伝えしたいと思います。

 

 

「言葉」これは、考えや感情といった、その人の目に見えない中身を最も端的に外部に表す重要な手段なので、何度かに分けて詳しく書こうと思います。

まず、簡単なことから始められる言葉の扱いは、きれいな言葉を使うようにすることです。

以前、とある人と食事に行きました。

女性の方でしたが、食べ物を口にするなり「うめぇ!」と言っていたので、以来その人と共に食事をすることはなくなりました。こっちのほうが願い下げだ、なんて言われてしまいそうですが、なぜ言葉遣いのよくない人と一緒にいたいと思えなくなるのか。それは、その人と共にいることで、自分をも同じように言葉遣いのなっていない人と見られることが嫌だからです。第三者のいない場所での話ならまだよいのですが、パブリックな場においては、一緒にいる人のことも考えて言葉は慎重に選ばなくてはならないでしょう。

同様にこれは特に女性より、よく聞く話ですが、一緒にいる男性がコンビニなどのお店の店員さんに対して横柄な言葉遣いをするのをみると、とても気分がよくないそうです。やはり、これも共にいる彼が他者(ここでは店員さん)への言葉による気遣いをしないことと併せて、いっしょにいる自分への配慮が欠けていること(自分も横柄な人と思われてしまいかねないということ)への嫌悪があるのだと思います。

このように、言葉の使い方ひとつで、身近な人に限らず、あなたを取り巻く多くの人の反応をよくも悪くもするものです。

で、あるのなら、せっかくですので、できる限りきれいな言葉遣いで人と話すことの方がよりよいでしょう。どんなに素敵な思考の持ち主でも、おかしな言葉遣いだったり、きれいな言葉遣いをしていなかったのなら、その中身は半減するというものです。それでは勿体ないですよね。

では、きれいな言葉遣いにするにはどうしたらよいでしょうか?

例えば、自分がきれいだな、と思うような言葉遣いをする人に学ぶことです。その他には多様な言葉の言い回しを出来るように沢山の言葉を本を読むなどして学ぶこともよいでしょう。

たいてい、きれいな言葉遣いをする人は、教養もあり、賢く、言葉の重みを知っているだけに、言葉がどのように他者へ影響するのかをわかっているので、人を思いやることのできるような素敵な人です。そんな人の使う言葉を学びましょう。

そして、多様な言葉知り、一つの物事に多様な表現をできるようになりましょう。

近頃では、美しいものもそうでないものも、大きいものや美味しいものも、逆に正反対のものも、事あるごとに「やべぇ」「やばい」で済まされてしまいます。私も話す相手の言語に合わせ仕方なく用いることもありますが、とても残念なことです。本当にやばいの一言だけで、自分の感嘆や感情、物事から受けた気持ちが相手に伝わるのでしょうか。

きれいな言葉の使い方は、その人となりを表します。意見のぶつかり合うような場面でも緩衝材となります。そして、きれいな言葉遣いは、必ずあなたをより美しく品よく魅力的な人と見せてくれます。

 

 

食事の仕方、ご飯の食べ方は、その人の印象を大きく変えます。食事の仕方ひとつで、その人の育ちが分かると言っても過言ではありません。

たかが食事、されど食事。生きるための根源的な行動、最も動物的な行為ゆえに、そこに人間特有の理性的な美しさが求められます。古今東西、食事に一定のルールがあるのは御存じのことと思います。

さて、では、どのような事に気を付ければよいでしょうか。ここでは小笠原流を学べ等といった細かいことには言及しません。日常での食事で最低限気を付けたいこと、そして少しだけ抜きんでた、他者をちょっとだけ感心させ目を引くような実践について述べます。せっかく、心の中に良い部分が沢山あるのに、食事の仕方だけで損をすることのないようにし、同時に自分の内面を磨く礼を身につけましょう。

 

まずは、すべての食事の動作をゆっくりと丁寧に行うように気を付けてみてください。それだけでとても美しく見えます。ガチャガチャと音と立て、器も食べものも雑に扱う食事の仕方はよろしくありません。自分の思っている以上に器を丁寧に扱って、ゆっくりと食べ物を口に運んでください。一つ一つの器を両手で下から包むように持つだけで印象は全く違うものとなります。まさに「いただく」動作ですね。器を置くときにも音を立てないよう、器に傷をつけないよう、そっと静かに。これの毎日の繰り返しで、他のあらゆる物の扱いが丁寧になる癖が身につくことは言うまでもありません。

そして姿勢も正しくしたいものです。せめて頭を器側に持っていくような動きは避け、イメージとしては頭は終始固定された位置であるような感じです。西洋などでは、頭の上に皿を置いて訓練したりしますよね。

この他、椀を渡すように箸を置かないようにだとか、選び箸、ねぶり箸はしないとか、椀を飲んでいるときに相手を覗くように見ないだとか、椀を両手で持ってから箸を持つだとか、汁椀の開け方は正面から向こうに向け奥側を接点として開けて90度そのまま回してから外し、内側を上にして置くだとか.....細かい所作を挙げればキリがないのでこのあたりにしますが、私が普段、他者と食事をする上で、この辺だけは気を付けるとよいだろうな、というものを挙げます。

 

一つは、箸の取り方。箸をきちんと三手でとるようにしましょう。実にこれを行う人が少ない。右手で覆うように上から箸の右側を持ち上げてから左手で受けるように下から箸を持ち、今度は上から持っていた右手を下からの向きに変え最終的に両手が箸を下から受け取る形にした上で右手の通常の箸遣いをする。これをするだけでとても美しい動きですし、何より食事をいただくという行為の理にかなっています。見る人が見れば、きちんと食事の礼を身に着けているな、とあなたの人柄をも美しく見てくれるでしょう。

それと、しょうゆ皿につけた刺身などをこぼれないようになのか下に左手を添えて口に運ぶ行為、これも多々見受けますが美しくない。手で持つ器、持たない器には種類がありますが、基本的に小さな器や丼ぶりは、手にもって運んでください。仮に左手に醤油がこぼれた場合、その手はどうするのでしょう?器をきちんと口元まで運ぶことの方が合理的で美しい。

そして、箸は先の方だけを使って食べてください。「箸先五分、長くて一寸」などと言われます。箸の先が食べ物と触れるところは、先より1.5㎝、長くても3㎝という意味です。たびたび置くことのある箸先が、随分な範囲で汚れてしまっているのは見た目に美しくないですし、共に食事をする相手にも失礼です。先の方を上手に使っていると必然的に一回に口に運ぶ量も少なくなり、掻き込むような動きもなくなりますし、頬張ることもなくなります。

最後に、食事を終えたとき。きちんと椀には蓋を元通りに被せ、箸置きならきれいに箸置きに、封のついていた割りばしならその中にきちんと戻して、芳しくはありませんが例え皿の上に残したものがあったとしても邪魔にならないような場所に寄せ、きれいな状態で終えるようにしましょう。お懐紙などがあれば便利ですが、今時そこまで考えて持ち歩くことはないかと思います。

このように、ここまで書いたことを実践し、日々気を付けるだけで、あなたの所作はとても美しいものとなり、あなたに対する他者の見方がよりよいものへと変わってくることは間違いありません。毎日必ず行う食事という行為をはじめは気を付けながら行っていても、そのうち自然に意識せずともできるようになり、まさに身に着きます。そして形を繰り返すことは、はじめは形だけのものであったとしても、そのうちにその意味を心の内から理解し、あなたの内面をもより美しいものへと変化させてゆきます。

そして、その行為や磨かれた内面の範囲は食事だけにとどまらず、あらゆる行為へと影響していきます。いただくことへの感謝の気持ちの表れ、物を大切に扱うこと、共に過ごす相手に失礼のないよう気を配ること等、いろいろと、よりよいことへと結びついてゆきます。

当たり前のような毎日の食事ですが、そこへきちんと食べ物への感謝の気持ちを表し、礼を尽くしていただくようにしましょう。

 

「おしゃれは足元から」などは、よく言われる言葉ですが、ここではおしゃれは置いておいて、身だしなみとして靴をきれいにすること、そしてそれが何故、よりよく生きることに結びつくのか、について述べたいと思います。

人を見たとき、その人の中身を最も如実に表すものは、靴でしょう。もちろん話をしたり、互いが接点を持つといろいろと変わるものもありますが、見た目の状態と限定した上で、その人の多くの情報を知ることが出来るものは、服でも持ち物でも化粧でも手でも髪型でも顔の表情でもなく、靴です。

まず、靴は、その他のものと違い、その人の歴史を知ることができます。なぜなら最も身に着ける持ち物の中で傷みやすい。時間による変化の早いものを見ることで、その物の扱われ方が比較的容易にわかります。

そして、逆に最も手をかける機会の少ないものなのではないでしょうか。毎日顔を洗い、風呂に入り、服を洗濯し、髪型を整え化粧をするのに、なぜ、常に地面に触れ最も汚れやすい物なのに日々、靴をきれいにしないのでしょう?

「足元を見る」や「足を掬われる(最近では、足元を掬われる、と誤用の方が一般的になってしまいましたが)」などのように、古来より足を用いた言葉も多くあり、いかに足や履物がものを言うかが窺い知れます。

職場やプライベートの様々な機会に相手の靴を一瞬見てみてください。どんなにその他の部分を小ぎれいにしていても、見るからに汚れた靴、手入れがされていない踵が斜めになるほど削れた靴、ぼろぼろに表面が剥げた靴を履いている人がいませんか。

そして、そんな靴を気にせず履いて人と会ってしまっている人ほど、決まっていいかげんだったり、がさつだったり、他のものや人を大切にしていなかったり、仕事ができなかったり、いわゆる良くない部分が多く表れてしまっている人ではないでしょうか。これらの本質、根底にあり、共通して言える部分は、「気持ちや心に余裕のないこと」です。

外出に的確な服を選び、髪型や化粧を整えたなら、最後の仕上げに玄関で、ひと手間靴をきれいにする時間を持ちましょう。持ち物を大切に扱う心と時間を大切に使うという余裕が必ずそこに必要になってくるはずです。

そうしているうちに、他のいろいろなことも身に付きます。どのような素材が使われ、どのように手入れをすればよいのかを知ると、例えば革靴などであれば、その皮革の生産国や特性、なめし方、製法やコバの仕上げ方などを知っていくことで、靴に限らない知識の世界の拡がりをもたらせます。そして、更に手間暇をかけ作られたその靴の理念を知ることとなるでしょう。そしてそれをありがたく受け取る気持ちをもつこと。これは、ものの大切さを知ることにも繋がります。

そのうえで、ものとして「よい」靴を選ぶことに越したことはありませんが、これは高価なものを選ぶことを意味しません。高価なものというのは、さほど人を判断する材料にはなりません。これは合成の誤謬(*)を生み出しやすいものです。一方で、日々の経過を目に見えた形で表されてしまう靴そのものの扱い方については、ごまかしが効かないものです。

 

勿論、靴が汚れているという理由だけでの偏見は、よくありません。その点には注意をしなくてはなりません。少なくともあなたが偏見を持たれないための、あなたを護る手段として考えてください。あなたが初めて会った相手は、たまたまその日に靴をきれいにすることをどうしてもできなかったのかもしれない。ただ、どうしてもきれいにする時間がなかったのなら、その時間の余裕を持てなかった人ともいえますが。

けれど、あなたが誰かと会ったとき、同じ背格好をして並んだ二人を見て一方の靴のみがきれいでなかったのなら、偏見は持たずとも、どちらにより好印象を抱くでしょう?そのように、人は第一印象で、その見た目で多くをある程度推し量ります。

対面する相手が、靴の手入れや履き方に無関心な相手であっても、少なくともあなたが靴をきれいにしていることで悪印象ということはないでしょう。ここまでくれば、もうお分かりいただけることと思います。

きれいに履いていない「より」、きれいに履いている方が「よい」、つまりこれが「よりよい」の意味なのです。

で、あれば、日々を生きていく上で、少しだけ心と時間に余裕を持ち、ひと手間かけて靴をきれいにしてあげましょう。その積み重ねが、より自分の愛着のあるよりよいものになり、あなた自身をも必ずよりよくしてくれる筈です。

 

良質かつ高級靴の代名詞ともいえるベルルッティのかつての当主は言いました。

「靴を磨きなさい、そして自分を磨きなさい」

とても素敵な言葉だと思います。

 

(*)~合成の誤謬~

ここでは経済学的な意味ではなく、本来の論理学的意味で用いています。

部分の和が全体を示すことが真ではないということ。実用的な例えで言うなら、あの人は高い時計を身に着け、高級車に乗っている、だからお金持ちだとか、彼は、玉ねぎと人参と牛肉が好きだ、だからカレーが好きだ、といった部分で全体を正しいと決めてしまうようなこと。私たちは日常的に、この間違いに陥りやすいものです。

 

自分の内面を外部に表すための唯一の部分が見た目です。

自分の心の中と他者や周囲とを繋ぐ接点ということです。初めて接する人同士の人柄、中身、その相手自身を知るための唯一の判断材料です。

ここで押さえておきたいのは、外見、見た目というのものは、あなたの考えや感情、気分といった目に見えないあなたのアイデンティティ(単純に心といっていいかもしれません)と密接に繋がっているものだということです。

あなたが今日着ている服、それは着替えるときに何らかの考えを巡らし、その日の予定、その時の気分などに合わせて選ばれたものでしょう。あなたの心の中の反映だといえます。もっとわかりやすく言えば、あなたの発する言葉はどうでしょうか。自分の考えたこと、思ったこと、感じたこと、そのようなあなた独特の持つ目に見えないものを形として、他者(自分の外)へと表す手段ですよね。それだけに見た目、目に見える形の表現、見えるもの、他者が形として受け取ることが可能なものは、あなたを表す上で、とても大切な部分です。

あなたの見える部分とは、単なる外見ではなく、あなたの見えない部分の最も外側に属する部分なのです。

更に、見た目の特徴的なところは、たとえ心の中で嫌な感情やよくない考えがあったりしても、それらを保護する作用を持っていることです。きれいな言葉、正しい姿勢、整った身だしなみ...これらは、自分の中だけにある自分の嫌な部分などを補ってくれるのです。内向的な思考のときであっても、外交的に振舞うことができるようことのようにです。とはいえこれは、自分を隠したり、他者を騙すためのものではありません。あくまでも、自分を護り、よりよく他者と接することでよりよく生きるための手段です。

見える部分は、見えない内面の一番外側であると同時に、変換可能な要素を持ち合わせているので、外部へ自分を護って表出したり、逆に外部からのよからぬ影響から守ってくれる一種の緩やかな壁、緩衝材のような役割も持っているのです。

そして、見た目をよりよくするということは、逆に心や気持ち、考えといった見えないところへも影響し、その見えない部分もよりよくします。

例えば、あなたが誰かと約束し、その時点での気持ちはどうであれ、きちんと身だしなみを整え相手と会ったときに、相手がそこを見てくれていて、何か良い言葉をかけてくれたなら、良い気分、幸せな気分になりませんか。あなたの見た目一つが、相手へと影響し、受け取った相手からの影響が自分をよりよくする。これが、よりよいことをすることによって自分に還元される、ということなのです。

そしてこの例の場合には、もうひとつ付け加えられる部分があります。あなたが逆の立場だったときの、見てくれている人となり、相手を心地よくできるような良い言葉をかけられることができることとなることです。その「言葉」というものも相手に自分の内面を伝えるための形としての見た目の一つでしたよね。そして、この相互の関係を内包しているものは、相手を慮る気持ちを形に表した「礼」と呼ぶことができるでしょう。

ここまで書くとわかってもらえることと思いますが、自分の中身と外(見た目、外見)が相互に影響するように、それを受け取る相手と自分も相互に影響するのです。これら一連の流れを良好にすることは、自分がよりよくなるだけでなく、他者との関係もよりよくし、ひいては他者自身をもよりよくしてゆくこととなるのです。

そしてそのような、よりよい人に囲まれたあなたの人生は、必ず幸福に溢れたものとなるでしょう。

それでは、事項からでは、いよいよ具体的に見えるものの何をよりよくしていけばよいのか述べたいと思います。

 

幸福であることを希求し、よりよく生きるための諸概念を内包した礼。ここからは、礼に繋がる一つ一つの外延部について述べていきます。

その前に、「礼」の項で挙げたように、自分が外部(他者、自分の外の物事)との接点を持つための過程は、自分の内面→内面の一番外側としての外面→接合面→外部(他者)の外面...といった当たり前ともいえる流れがあります。ここではいったん言葉を換えて内面を「見えないもの」(感情や思考、気持ち...)と呼び、その見えないものの一番外側=外面を「見えるもの」(見た目、行為、行動、言葉...)とわかりやすく言いましょう。

他者や外の物事から影響を受けることはあっても、思考し自分を形成し表出することができるのは、単純にこの2つだけです。

よく、見た目と中身とどちらが大事か?とか外見はともかく中身を磨くことこそ大切だ、といったような話などを耳にしますが、さて、これらは相反し相容れないような対立したようなものでしょうか。

心と体が不可分な一元的なものであるように、見えるものと見えないものは相互に作用し、どちらもバランスよく中庸のとれたものでなくてはなりません。

体の調子が悪いと気分が沈んだり、逆に心が疲れたり気持ちが乗らないと、体もだるく、動く気にならない、元気に振舞えない、なんてことがありますよね。病は気から、などという言葉もあります。かつては心と身体は別のもの、といった心身二元論といった考えが主流でしたが、現在では、医学的にも哲学的にも心と体は不可分のものとされているといってよいでしょう。

少し話が逸れましたが、心と身体のように、見えるものと見えないものも同様に不可分で、密接に関わりを持ち、その関わり合いによって、よりよくも、よりわるくもするものだといえます。

お気に入りの服を着て、出かけるときには気分の良いものですよね。一方、身支度の際に髪型が気に入らないと、もはや外に出ることすら嫌になってしまうという気持ちを沈めることとなったり。逆に気持ちや思考が明晰な時には、自然に身なりや行動にも気を配れたりしませんか?自分の気持ちが穏やかな時、人にも優しくなれる、ということもその一つだと思います。大事な面接や商談の直前の、気分が緊張し、あらゆることを想定した思考が自分の中を駆け巡るような時、鏡をふと見て髪型やメイクを整えませんか。それが、自分の見えないものをきちんと見える部分に反映させる為の一つの繋がった状態と言えるでしょう。

しかしこのバランスが一たび崩れるとどういったことになるでしょうか。見えるものばかり執着し、自分にも他者にも、そこに基準線を引いてしまうと、思わぬ落とし穴にはまってしまいます。見た目で信用した相手が、実はとんでもない中身の人であったりすることはよくあります。それは、あなたが自分の見えないところをきちんと見ることをおろそかにしたせいで、他の見えないものを見たり知ることも忘れてしまったからです。見える部分にこだわるあまり、見えない部分を補うように更に見えることにこだわる。その結果、いわゆる形だけの付き合いの人間関係ばかりになり、他者をいたわる気持ちをも失いかねません。見えないものが荒んでしまえば、きっとそれは見えるものへも影響するでしょう。見えないものの表に現れた部分が見える部分なのですから、いかに隙がなく作りこまれたとしても、それは見る人が見れば見破られてしまいます。

同じく、見えないものにばかりにしか興味を示さず、一切外見を気にしないようであっては、せっかく磨いた内面と外部(他者)との良好な接点を持つ機会は減少してしまうでしょう。あるいは思わぬ偏見を持たれるかもしれません。そうなってしまうと、今度は気持ちが暗くなり、見えないものへも悪影響を及ぼしてしまうこととなり、相互にマイナスのスパイラルへと導かれてしまいかねません。このように、見えるものと見えないものは、常に一体のもので、どちらもよりよくなくてはなりません。

しかしながら、不可分であることを前提としながらも、あえてそこに優越をつけるのならば、それは見えない部分と言えるかもしれません。なぜなら、見える部分は、見た目、行動、言葉など、その範囲は、そのように頑張っても目に見える身体の範囲を超えることはできません。他方、見えないものというのは、見えないだけに、死ぬまでという時間的制約はあっても、その思考は限りない拡がりを持っているからです。そして、冒頭や礼についてのところで言った通り、見えない部分とは見える部分に先立つものであり、見えない部分を形にしたものが見える部分であることからも、見えない部分というのはそれだけ重要であり、しかもそれをよりよくすることは難しく時間のかかるものだといえます。

とはいえ、見えるものと見えないものは相互に作用しているので、見えるものをよりよくしてゆくことで見えないものも磨いていきます。よりよい生き方が、自分の表出により他者から還元を受け幸福であるとするのと同じく、見えるものを見えないものへ還元することもできるのです。

見えないものをよりよく、と取り組む作業は、それが目に見えないだけになかな難しいものです。これからは、先ず、見えるものとして自分をよりよくするためのひとつひとつの物事や、その見えるものに対してどのような心構えで実践していくことが、見えないものへ繋げることができるか、といったことを具体的に述べていきます。