見た目、目に見えるものの大切さ(2)~靴をきれいに~ | 「自分磨き」をしたい人のためのブログ ~よりよい生き方~

「おしゃれは足元から」などは、よく言われる言葉ですが、ここではおしゃれは置いておいて、身だしなみとして靴をきれいにすること、そしてそれが何故、よりよく生きることに結びつくのか、について述べたいと思います。

人を見たとき、その人の中身を最も如実に表すものは、靴でしょう。もちろん話をしたり、互いが接点を持つといろいろと変わるものもありますが、見た目の状態と限定した上で、その人の多くの情報を知ることが出来るものは、服でも持ち物でも化粧でも手でも髪型でも顔の表情でもなく、靴です。

まず、靴は、その他のものと違い、その人の歴史を知ることができます。なぜなら最も身に着ける持ち物の中で傷みやすい。時間による変化の早いものを見ることで、その物の扱われ方が比較的容易にわかります。

そして、逆に最も手をかける機会の少ないものなのではないでしょうか。毎日顔を洗い、風呂に入り、服を洗濯し、髪型を整え化粧をするのに、なぜ、常に地面に触れ最も汚れやすい物なのに日々、靴をきれいにしないのでしょう?

「足元を見る」や「足を掬われる(最近では、足元を掬われる、と誤用の方が一般的になってしまいましたが)」などのように、古来より足を用いた言葉も多くあり、いかに足や履物がものを言うかが窺い知れます。

職場やプライベートの様々な機会に相手の靴を一瞬見てみてください。どんなにその他の部分を小ぎれいにしていても、見るからに汚れた靴、手入れがされていない踵が斜めになるほど削れた靴、ぼろぼろに表面が剥げた靴を履いている人がいませんか。

そして、そんな靴を気にせず履いて人と会ってしまっている人ほど、決まっていいかげんだったり、がさつだったり、他のものや人を大切にしていなかったり、仕事ができなかったり、いわゆる良くない部分が多く表れてしまっている人ではないでしょうか。これらの本質、根底にあり、共通して言える部分は、「気持ちや心に余裕のないこと」です。

外出に的確な服を選び、髪型や化粧を整えたなら、最後の仕上げに玄関で、ひと手間靴をきれいにする時間を持ちましょう。持ち物を大切に扱う心と時間を大切に使うという余裕が必ずそこに必要になってくるはずです。

そうしているうちに、他のいろいろなことも身に付きます。どのような素材が使われ、どのように手入れをすればよいのかを知ると、例えば革靴などであれば、その皮革の生産国や特性、なめし方、製法やコバの仕上げ方などを知っていくことで、靴に限らない知識の世界の拡がりをもたらせます。そして、更に手間暇をかけ作られたその靴の理念を知ることとなるでしょう。そしてそれをありがたく受け取る気持ちをもつこと。これは、ものの大切さを知ることにも繋がります。

そのうえで、ものとして「よい」靴を選ぶことに越したことはありませんが、これは高価なものを選ぶことを意味しません。高価なものというのは、さほど人を判断する材料にはなりません。これは合成の誤謬(*)を生み出しやすいものです。一方で、日々の経過を目に見えた形で表されてしまう靴そのものの扱い方については、ごまかしが効かないものです。

 

勿論、靴が汚れているという理由だけでの偏見は、よくありません。その点には注意をしなくてはなりません。少なくともあなたが偏見を持たれないための、あなたを護る手段として考えてください。あなたが初めて会った相手は、たまたまその日に靴をきれいにすることをどうしてもできなかったのかもしれない。ただ、どうしてもきれいにする時間がなかったのなら、その時間の余裕を持てなかった人ともいえますが。

けれど、あなたが誰かと会ったとき、同じ背格好をして並んだ二人を見て一方の靴のみがきれいでなかったのなら、偏見は持たずとも、どちらにより好印象を抱くでしょう?そのように、人は第一印象で、その見た目で多くをある程度推し量ります。

対面する相手が、靴の手入れや履き方に無関心な相手であっても、少なくともあなたが靴をきれいにしていることで悪印象ということはないでしょう。ここまでくれば、もうお分かりいただけることと思います。

きれいに履いていない「より」、きれいに履いている方が「よい」、つまりこれが「よりよい」の意味なのです。

で、あれば、日々を生きていく上で、少しだけ心と時間に余裕を持ち、ひと手間かけて靴をきれいにしてあげましょう。その積み重ねが、より自分の愛着のあるよりよいものになり、あなた自身をも必ずよりよくしてくれる筈です。

 

良質かつ高級靴の代名詞ともいえるベルルッティのかつての当主は言いました。

「靴を磨きなさい、そして自分を磨きなさい」

とても素敵な言葉だと思います。

 

(*)~合成の誤謬~

ここでは経済学的な意味ではなく、本来の論理学的意味で用いています。

部分の和が全体を示すことが真ではないということ。実用的な例えで言うなら、あの人は高い時計を身に着け、高級車に乗っている、だからお金持ちだとか、彼は、玉ねぎと人参と牛肉が好きだ、だからカレーが好きだ、といった部分で全体を正しいと決めてしまうようなこと。私たちは日常的に、この間違いに陥りやすいものです。