イーゴリ・ストラヴィンスキー | タケさんのブログ クラシック時々ポピュラー&グルメ、観光

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クラシックを中心に、ポピュラーや民族音楽なども(少し)紹介してます。
レアなものや変わったものも多いので、良ければ見てやってください。

 イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Storavinsky 1882-1971)没後50年です。

 サンクトペテルブルク近郊のオラニエンバウム生まれで、サンクトペテルブルクで育つ。 父フョードルは、舞りんスキー劇場付きの、当時ロシアを代表するバス歌手であった。

 1901年、サンクトペテルブルク大学法学部に入学するとともに、週に一度、音楽理論を学んだ。 法学部で知り合ったリムスキー=コルサコフの息子ウラディーミルと知り合ったことで、リムスキー=コルサコフの講義を受けることができるようになる。 1906年に、卒業し、作曲家として活動を始め、最初期の作品幻想的スケルツォ(1908年作曲)花火(1909年作曲)を聴いたデイアギレフ(バレエ・リュス主宰)から、仕事を依頼されるようになる(と、自伝に書いてある)。 最初は、ショパンのピアノ曲を管弦楽化した「レ・シルフィード」だったが、その後、バレエ三部作「火の鳥」「ペトリューシュカ」「春の祭典」を、作曲、一躍時の人となる。

 その頃から、夏はウクライナ、冬はスイスに住んでいたが、1917年ロシア革命により、政府から土地や財産を没収され、ロシアに帰れなくなり、スイスに定住する。

 1921年からは、フランスに移住するが、最初は、住所が一定せず、ブリュターヌ地方や、ニース、スペインとの国境近くなどを、転々とする。 1934年からパリに住むが、フランス人が彼の作品に興味を示さなくなったことと、ナチスから、退廃音楽と非難されたことで、1939年9月に公演のために渡米して、そのまま移住。 ハリウッドに居を構える。

 1945年には、アメリカの市民権を得て、活躍するが、1966年以降は、作曲せず、指揮も引退同然だった。 1969年から、ニューヨークの高級ホテル、エセックスハウスに滞在するが、1971年4月6日に死去。

 作風は、年代ごとに、変わっていき、原始主義、新古典主義、セリー(十二音)主義をとり、カメレオン作曲家とも言われる。 一般的に有名なのは、原始主義のバレエ三部作ですが、新古典時代の、「兵士の物語」や「プルチネルラ」も、良く演奏されます。 セリー時代は、約16年くらいあり、作品もそれなりにあって、コンサートのプログラムに取り上げられることもあります。 作品数としては、新古典時代が一番多いので、コンサート好きな人には、そのあたりのほうが、耳なじみがあるかも。

 

では、最初期の「幻想的スケルツォ」を^^b けっこう聴きやすいです。

 

 

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