866年9月22日、「応天門(おうてんもん)の変」により伴善男(とものよしお)は伊豆へ流されました。
さ~て、ここで少し歴史のお勉強です
●応天門 → 平安京において朝廷内で重要な儀式などを行う場所であった朝堂院(ちょうどういん)の正門のこと。
●応天門の変 → その正門が放火された事件のこと。
●伴善男 → 平安初期の大納言(だいなごん)という偉い立場の人のこと。
つまり、応天門が放火されて、その犯人である伴善男が伊豆に島流しにあったという話なのですが、そんな簡単な話ではありません。
詳しく書くと、私も説明しきれないので、かな~り簡単に書きますが
まず、放火事件の登場人物は4人。
大納言 : 伴善男(とものよしお)
右大臣 : 藤原良相(ふじわらのよしみ)
左大臣 : 源信(みなもとのまこと)
摂政 : 藤原良房(ふじわらのよしふさ)
当時の偉いもん順は 摂政>左大臣>右大臣>大納言 でした。
この中では一番下である大納言が右大臣にこう言います。
「左大臣が放火犯だ!(左大臣がいなくなれば、現在の右大臣が左大臣になり、大納言の私が右大臣になれるもんねぇ)」
右大臣も「左大臣に兵を送れ!(これで左大臣の座は私のもの)」
こうなっては、左大臣も黙ってはいません。 一番偉い天皇に直訴に行くのです。
すると、困り果てた天皇は、一番近い摂政に「この事件は君に任せるよ」と後処理をするように頼みました。
その後、どうなったかというと・・・
大納言 : 伊豆へ島流し
右大臣 : 影響力を失う → 翌年死去
左大臣 : えん罪でトラウマ → 引きこもり
というわけで、重要な役どころの人が次々にいなくなったわけですから、摂政の一人勝ち~
これにより藤原家は、圧倒的な勢力を持つ一族へと成長していったのでした。
実際のところ、放火事件の真相は分かっていません。 もしかしたら、摂政が裏で操っていたのかもしれません
さてさて、応天門は現在、復元されています。 みなさんも見たことのあるこの風景。
そう、平安神宮の入り口。 実際にあった応天門を5/8の大きさで復元されたものです。
平安神宮に行かれた際は、このお話をちょっと思い出してみて下さいね
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