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3.ポストコロナとコミュニタリアリズム

先にも述べたとおり、6つの現代正義論すべてに長所と短所が存在しています、そのような中で、私は自分の研究や活動から考えても「コミュニタリアニズム」が私の中での軸であるのではないかと考えました。コミュニタリアニズムは人という点を対象としているのではなく、人と人、物と物を繋いでいる線と人や物という点の点と線両方の空間を主軸とした思想です。

 

これは質的調査における構造化インタビューや半構造化インタビューに近いと思います。「はい」や「いいえ」。集合体の中から1つを選ぶ量的調査ではなく、「なぜ」「どのようにして」という人の内部に踏み込んだ質問というのは、人々がともにあること注目し、ともに考え、ともに行動する共通性を重要視しています。

 

ここで、NHKの武本大樹アナウンサーのお話を事例の1つとして取り上げたいと思います。

 

伝える立場に置かれている人であったとしてもその伝える人が物事を伝えることができるまでには、相手側と交渉をする人、アポをとる人、カメラを回すカメラマンやディレクター、見やすく視聴者に投げかける形にできる編集者など数多くの人が存在しています。

 

そして最終番手の伝える立場の人はいつも自分の庭にいる訳ではなく、アナウンサーが配属先が甲府や宮崎など自分の知らない土地であることが多いことからもわかるように、未開の地に足を踏み入れ伝えることも大いにあります。

 

その際に相手のことをきちんと理解した上で全部を経験するような形で短い質問から数多くのことを引き出し何よりも相手のことを人一倍好きになる必要がある。

 

 

 

 

 

 

これはまさにコミュニタリズムで述べられている立場そのものであり、郷に入れば郷に従えと言うようにある程度個々は集団にまじあうために必要なことと言えると思います。

 

 このことは自分より立場が上である人に対しても逆に自分よりもマイノリティな人に対しても同じことが言えます。そもそも、すぐにカメラを回し始めるのではなく、インタビューをする相手とラポールを形成してからカメラを回し取材を始める。これはいかなる人が相手だとしても行われるべき課程であると武本アナは言ってらっしゃいました。

 

そして対相手がもしも障碍者や外国人の場合、障碍者や外国人として取り立てたり、大変な部分を取り立てたりする訳ではなく、出来ていることにすごいということ、言語というツールでコミュニケーションを取ろうと考えないこと、そして、なんと言っても、尊敬の念を持つことが大事であるとも言っていました。

 

このことはつまりは、共同体の中にいる個々に注目するのではなく、相手と自分の共同体によって生み出すことのできるもの、共同体だからこそ引き出すことのできることに注目すべきことを意味していると考えます。

 

 

 

 

 

 

 

そして、私は大学在籍時から、当事者研究をしており、インタビューしたデータを元に分析を行なう作業が研究の第一段階でした。

 

コロナが蔓延する前と後では、インタビューの概念が全く違うものとなりました。

 

オンラインでラポールをインタビュー対象者全員に公平に形成することはまず無理だと思いますし、何よりも当事者研究はオンラインで全てを出せるのかというの懸念があります。

 

オンライン上でのコミュニタリズムはオフラインでのコミュニタリズムと大きく異なると考えられます。

 

そして、一度オフラインにより形成されたコミュニティがオンラインになるのと、初めからオンラインとして成立した共同体では趣旨や目的、真の理解など大きく異なると考えます。

 

あって話すから見いだせることというのはたくさんあると思います。人の目を見ているからこそ語ってくれる真実、自分と相手だけというわかりきった共同体だからこそ話すことのできること。

 

オンラインベースのコミュニタリアニズムも今後注目されるとは思いますが、バーチャル会議や在宅ワーク、通信教育が多くなる中、この共同体の中でのラポール形成の不確実さは考えていくべきなのではないかと思います。

 

確かに、今まで忙しくてなかなか取材出来なかった方々に対してオンラインで取材をするということはメリットかもしれません。

 

しかしそれが研究や適切な教育に利用できるかというとそうではないと思います。

 

 また、私は障碍児を持つ兄弟に視点を当てて長い間、研究をしてきました。このような子供達が家族も一緒にいる自宅からオンラインでインタビューを引き受けてくれるのか、引き受けてくれたとしても本音を引き出せるのかという課題は残ると思いました。

 

これはつまりはコミュニタリズムの中から諸人民である個人を取り出し、リベラリズムとも言える諸人民の自由な意見を抽出することができるのかという議題になってくると思います。

 

 そして私は仕事と研究の合間に、障碍児のスポーツ支援を行っています。

 

私が所属するチームには、近年、自分の就活のため、キャリアアップのために活動を始めた人も少なくありません。

 

自分が今その人の立場にきちんと立てているのか、主役は自分ではないことをきちんと理解し、ただただ自分自身のキャリアアップのためだけではなく、共同体の中に入っていく必要があると実感しました。

 

そしてこのことから見てもコミュニタリアニズムは新たなコミュニタリアニズムに変化しているのではないかと私は考えます。それは共同体というコミュニティのなかに複数の小さい共同体が存在しているということです。

 

今までは共同体の中には諸人民しかいないと考えられていました。しかし、今の社会では大きなコミュニティを小さな複数のコミュニティにしていることや、その逆に小さなコミュニティを大きくしていくことにより最終形態のコミュニティを作成しているケースも多く存在しています。

 

そのことからもコミュニタリアニズムを複数回考える必要があり、同じ平面に複数の所属があることも多いなかで必要十分の関係にある集合体や全く平行線の状態にいる共同体などを自由気ままに移動できる諸人民が作り上げるコミュニタリズムは今までのコミュニタリアニズムと比較しても複雑と言えると思います。

 

そして、グループでの活動に意義を見出すあまり、個々の子供の人権や自由を見失ってしまうことは言語道断であり、コミュニタリズムを推進していくに当たっても最低限度のリベラリズム:諸人民の最低限どの平等な自由は維持していくべきであると私は考えます。

 

これは、サンデル氏の近年の熱血授業を見ていても感じることですが、近年のサンデル氏は全ての学生に対して、「間違っている」「NO」を突きつけません。

 

しかし、視聴者として見ている限りでは圧倒的に間違っている1人の意見により本来であればより有意義に使うことのできた時間がくだらない初歩的な堂々巡りの意見の交換で終わってしまうと私は考えました。そのような現状を見ていても、共同体のなかで共に学び合う、成長していくということはとても大切なことですが、共同体の中にいる諸人民が仮に間違っている方向性にいたとしたら、共同体の他の人の平等に成長する権利を守るために、間違っている人に助言や注意をする必要性は大いにあると考えました。

 

話は、長くなりましたが、もう一度、このポストコロナ、ビヨンドウクライナロシア戦争を機に、正義とは何かについて考え直すこともいいのかもしれません。