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2-6.ナショナリズム

コトラー著「ソーシャル・マーケティング 貧困に克つ7つの視点と10の戦略的取り組み」において、貧困に克つ7つの視点に「民衆扇動者に従う可能性」をあげています。貧困者はコミュニズムやファシズムに走りやすいという見解がなされるように、現在の英国のEU(欧州連合)離脱国民投票や2016年の米国の大統領選の背景、英米だけでなくテロと難民、移民の波に怯える欧州諸国、長期の不況から脱却できず、雇用の劣化と貧困に苦しむ日本など全ての地域においてこの「民衆扇動者に従う可能性」は悩ましい課題となっています。

 

 

 

 

これは「被害者意識」にとらわれたナショナリズムとも言えるのではないかと私は考えました。自分たちが当然のごとく享受すべき富や権利が外国人に損なわれているという心理です。しかしこの「被害者意識」は現代によって始まったものなのではなく、サラエボ事件の頃から存在し、そしていまだに解決していない問題ともいえます。

 

p216にある通り、a people(諸人民)、a state(国家)、a nation(国民)のなかで、諸人民が重要視されるようになった中で、本当に諸人民の法で良いのかと私は長い間考えていました。p217 l5-6にあるようにリンカーン大統領は「人民の人民による人民のための統治」と述べ、主権在民、主権のあり方としての人間の集合体に視点を当てていました。

 

しかし、グローバル化が進み、2001年以降、EU連合が発足し、通貨の壁、国境の壁を無くしてしまった以上、p245 l8-10にあるように、社会的協働説のなかに、新しい種類の正義が入ったことにより、愛国心の定義化の変化や難民問題、入管法の問題が存在し始めたのではないかと考えます。これの発端はp242 l10-p246 l2でも描かれている通り、難民問題はアラブの春から問題化され、ドイツの難民問題やイギリスの離脱問題などが発生しました。しかし、これは捉え方を変えると「人民中心」「人民の人民による人民のための」という人民中心に物事を捉えることによる弊害なのではないかと考えました。

 

p247 l9-11にも書かれている通り、人々には自然による祖国、言い換えれば出生地や「〜人」などの塗り替えることのできない名札のような自然の祖国と今自分がいる場所に基づいた変わりゆる市民権における祖国の二つがどんな時代も存在していたと思います。

 

その中で、「移動する民」の研究をする研究者が増えていることからも考えられるように人々はアイデンティティの自覚とグローバル化などの様々な産物により、市民として受け入れてもらえた場所も祖国に考えることが増えてきたなかで、適正な愛国心をもち、純粋な自然の市民権と祖国が同じ人にとって、移動する民の税金支援をすること、就労問題などは目の上のたんこぶと言われるほどやっかいなものなのかもしれません。