みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「くずはモール(大阪府枚方市)」内の京阪電車鉄道博物館「SANZEN-HIROBA(さんぜんひろば)」で現在、開催されている「平成・令和時代における京阪電車のフラッグシップ 8000系展」を訪問した際の様子をお送りしています。
来年(2025年)で、京阪特急の誕生から75年。本題の「8000系」について取り上げる前に、その歴史について、ここ「SANZEN-HIROBA」の常設展示や、手元の参考文献などにも触れながら項を進めています。
戦後、技術革新が進んだ昭和20年代末から30年代にかけて、京阪特急でもその技術をいち早く導入した車両が次々と登場しました。出典①。
前回記事で取り上げた、昭和28(1953)年から登場した「1800系」。「テレビカー」が名物となり、豪華な座席にも人気を博します。
主電動機にカルダン駆動という、当時最先端の駆動方式を採用。さらに、台車も乗り心地の改善を目的に、空気バネ台車を履かせるなど、看板列車としての面目を躍如していました。
それをさらに改良し、1963(昭和38)年には4代目の特急専用車両「1900系」がデビューします。先代の「1800形」とは異なり、車体は実に滑らかな外観で、スマートな印象です。
先頭車両には銀色に光るバンパー。飾りではありますが、実に特徴あるものでした。出典②。

こちらにも「テレビカー」が連結され、台車も空気バネを採用。特徴的だったのは、同年4月16日の「天満橋〜淀屋橋間地下延長線開業」のシンボルとなったことでしょうか。
明治の開業以来、京阪の大阪方のターミナルは大阪城に近い、官庁街の「天満橋」でした。
しかし、京阪沿線から市内中心部にアクセスすには、天満橋から市電・市バス、京橋で国鉄(現在のJR)環状線に乗り換えが必要で、加えて激化する混雑の中、乗客は不便を強いられていたのでした。
6ホームを有し、乗降動線が完全に分けられた地上駅時代のターミナル・天満橋。出典①。
ではここからは、手元の記念誌「京阪七十年のあゆみ(京阪電気鉄道株式会社編・刊 昭和55年3月発行)」から、その経緯を拾ってみることにいたします。
創業以来の念願
淀屋橋という都心への路線延伸は、実に創業以来、半世紀にわたる当社の念願であり、その建設は歴史的事業であった。というのは、もともと当社は明治39年、当時の大阪の中心地だった
北浜、船場に接する高麗橋東詰(現在の淀屋橋)と、京都の五条大橋東詰を結ぶ軌道免許を得て創立されたのであった。
ところが大阪市では明治36年9月、市営電車(大阪市電)の運行をはじめて以来、市内中心部の電車路線については市営主義を貫き、当社の進出に難色を示していた。
結局、当社は市と話し合いの結果、起点を天満橋南詰に変更することで落ち着き、天満橋以西は市が軌道を敷設し、阪神電車(明治38年開業)・京阪の両社が「梅田〜天満橋間」の市営電車路線に相互乗り入れすることになった。
こうして当社は明治43年4月15日、天満橋〜五条間の営業を開始した。
しかし、翌44年10月に大阪市電北浜線が天満橋まで開通したにも関わらず、乗り入れのためにあらたな小型車両を建造することが条件となり開業間もない当社にとって、車両新造を前提にした乗り入れはほぼ不可能に近かった。
このため、当社は大阪市と取り決めた乗り入れに関する契約を明治44年12月に解除し、創業当初の計画は天満橋を起点にすることで大きく後退してしまった。
以来、当社の大阪都心の乗り入れの夢は永く持ち続けられてきたが、大阪市の「市内交通は市営で」という、いわゆる「市営モンロー主義」の障壁は大正、昭和と立ちふさがり、実現の機はなかなか熟さなかった。
ところが戦後になり、郊外から都心に流入する旅客需要が増大するにつれ、その対応を講じる目的で1955(昭和30)年7月に運輸大臣の諮問機関として、全国規模の「都市交通審議会」が設置されます。
その傘下の「大阪部会」では国、府、市、国鉄、そして民間鉄道事業者が一堂に会するもので、審議会の協議の結果、同33年3月に天満橋〜淀屋橋間1.6kmの特許申請を出願。同34年2月、ついにこの区間の特許を国から得ました。続きます。
京阪の価値が不動に
京阪沿線は大阪の北東部にあたり鬼門といわれたため、戦前から開発が遅れていたが、戦後、都市化現象が郊外へ一段と広がりをみせ、昭和30年代を境に守口、門真、寝屋川、枚方へと続く沿線各都市の人口は急激な増加をはじめた。
昭和31年10月の旅客流動調査では、沿線を利用して大阪市内に通勤する旅客は1日に延べ17万人を越え、このうち30%が北浜、船場、堂島、梅田といったビジネス街に集中していた。

また、在阪5私鉄のうち、ターミナルが大阪市営地下鉄1号線(現在のOsakaMetro御堂筋線)と接続していないのは当社だけであり、淀屋橋への乗り入れを強く要望する沿線利用客の声に応えることも重要な問題となってきていた。
従ってこれらに対処し、混雑解消と通勤・通学所要時間の短縮など沿線利用客の利便向上を図るためには、淀屋橋までの延伸線の建設がどうしても必要であり、かつ緊急性を帯びていた。
昭和36年1月に着手した淀屋橋地下延長線の建設は、2年4ヶ月という短い期間に総工費70億円の巨費を投入して同38年4月に完成したが、延長線の開通一年後(同39年)には沿線旅客数が14%も急増したほか、収入面では当初予測を5〜8%上回る成績を収めた。(中略)
また、延長線開通前に比べて天満橋駅の乗降客が半分に減少、ラッシュ時の沿線から大阪市内に流入する旅客数も、ターミナルの野江〜京橋間が前年比11%増えたのに対し、京橋〜天満橋間は同30%も増加、これまで国鉄(現在のJR)環状線、片町線(同学研都市線)や市電、市バスを利用していた旅客を京阪線に転移させ、既設線の効率を一段と高めた。(同、P145〜146)
市内交通の緩和に大きな役割
新線開業後の昭和38年6月、当社運輸部旅客課が調査した地下延長線の輸送量によると、地下延長線内(淀屋橋〜天満橋間)は1日約9万人、そのうち淀屋橋駅の乗降人員は7万人、北浜駅は1万5000人であった。
また、これらの旅客は午前8〜9時までの1時間が最も多く、淀屋橋駅での乗降旅客の約50%は大阪市営地下鉄御堂筋線に連絡していることがわかった。
開通前のラッシュは午前7時30分〜8時30分であったことから、延長線の開通による大阪市内中心部への所要時間短縮により、ラッシュのピークが約20〜30分ずれたことが大きな特徴であった。
一方、天満橋駅の乗降客数は1日約8万人、地下延長線開通前と比較して約40%減少し、京橋駅も16万5000人で5%の減少となった。しかし、京橋〜淀屋橋間では約12%もの増加になって現れたのであった。(同、P191)
このように地下延長線の開通は、
1.京阪線の価値を著しく高め、都心ならびに沿線の開発を促進させた
2.既設線の利用度を高めた
3.直通旅客の京阪線利用を増加させた
4.新線内の普通券による相互旅客を予想以上に誘発した
ことなどが指摘でき、単に都市高速鉄道網の整備という公共的要請に貢献しただけでなく、京阪線の価値を不動にしたわけである。(同、P145〜146)

乗り換えなしで、淀屋橋という大阪市内中心部に直接アクセス出来るようになった意義は大変大きなものなのでした。
なにより、新大阪・梅田・なんば・天王寺などという、市内の大ターミナルをつなぐ「御堂筋線」と接続出来た、ということがいちばん大、だったのではないかと思えます。これは今日でもそうです。新大阪にて。
ところで、ここに来てようやくにして、実際に見たり乗ったりしたことのある車両がここで登場しました。
淀屋橋延伸のシンボルとなったこの「1900系」も実に息の長い活躍を続けた名車なのでした。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「鉄路五十年」京阪電気鉄道株式会社編・刊 昭和35年9月)
(出典②「京阪百年のあゆみ」京阪電気鉄道株式会社編・刊 2011年3月)