「平成・令和時代における京阪電車のフラッグシップ 8000系展」を訪れる〜その7 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


「くずはモール(大阪府枚方市)」内の京阪電車鉄道博物館「SANZEN-HIROBA(さんぜんひろば)」で現在、開催されている「平成・令和時代における京阪電車のフラッグシップ 8000系展」を訪問した際の様子をお送りしています。



来年(2025年)で、京阪特急の誕生から75年。本題の「8000系」について取り上げる前に、その歴史について、ここ「SANZEN-HIROBA」の常設展示などにも触れ、項を進めています。


さて、1950(昭和25)年9月に京阪特急が誕生して以降、ノンストップ運転される特急は利便性の良さから、人気を博すようになりました。

1953(昭和28)年には、早くも「3代目京阪特急」としてこの「1800形」が登場します。


先代で、2年前に登場した「1700形」から向上した最先端技術のカルダン駆動方式を採用。

高性能な車両で、スピードアップのみならず、台車も改良されて乗り心地も向上が図られた、革新的な車両でした。出典①。



なにより、この「1800形」最大の特徴というのは、車内にテレビ受信機を備え付けた関西初の「テレビカー」の連結でした。


出典より。大阪でテレビの試験放送がはじまったのは1952(昭和27)年2月のことでしたが、当時、庶民にとっては街頭テレビくらいしか観ることの出来なかったテレビを、走る列車内に設置しようと、京阪の首脳陣は考案します。

ライバル路線からの旅客転移を狙ったものでしたが、これの実現には、戦前から京阪沿線に本社を構える「松下電器(現在のパナソニック)」の全面的な協力が大でした。


「テレビカー」は1954(昭和29)年9月3日に待望の運行を開始。もちろん白黒テレビでした。

動く列車ですので進行方向が常に変わるゆえ、乗務員の方々によるアンテナ位置の操作など、なにかとその維持には手間を要したようですが、京阪の目論見通り大好評を得て、京阪特急の利用客増加に大きく貢献を果たします。



「テレビカー=京阪特急」というイメージはこの「1800形」から絶大なものとなり、平成に至るまで、代名詞そのものになったのでした。出典②。


「SANZEN-HIROBA」で保存展示されている、5代目京阪特急「3000系」にも設置。テレビは白黒からカラーに変わります。



展示より。くだんの「8000系」がデビューした際に発行された車両紹介のリーフレット。

こちらにも「テレビカー」はもちろん連結。


車内で放映されるテレビを観るに当たっては、蛍光灯の光が入らないように、テレビ付近の照明を消す仕様にするなど工夫がなされました。


さらに「8000系」では、テレビの右下にカード専用電話も設置されます。

昭和末期から平成初期にかけては、特急列車では比較的多く設けられたものでしたが、利便性の向上はこのような点でも図られたのでした。




名物「テレビカー」を擁した京阪特急は、昭和30年代に入り、終着駅の三条から「京津線(けいしんせん)」を介して、琵琶湖観光の連絡列車としての役割も担うことになります。



比良山系に至る系列の「江若鉄道(こうじゃくてつどう)」や、大津港を拠点にする琵琶湖汽船「玻璃丸(はりまる)」など、琵琶湖観光の連絡列車としての役割も加わり、京阪間輸送のシェアを大きく占めるに至りました。

「琵琶湖の女王」と呼ばれた「玻璃丸」が大津港に入港。当時の琵琶湖観光は、関西随一のレジャーでもありました。



そして、時代は1963(昭和38)年4月16日。
明治の創業時からの悲願だった、大阪市内中心部、地下鉄御堂筋線に連絡する「淀屋橋」に京阪は地下線で延伸を果たします。出典①。

その延伸に合わせて、4代目の新型特急車両「1900系」が投入されることになりました。


天満橋地下線入口を通過する一番列車。
充当されたのが、その「1900系」なのでした。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「京阪百年のあゆみ」京阪電気鉄道株式会社編・刊 2011年3月発行)
(出典②「鉄路五十年」京阪電気鉄道株式会社編・刊 昭和35年12月発行)