特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン」訪問記〜その24 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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みなさんこんにちは。前回からの続きです。

おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際のシリーズ、今日から再開することにいたします。



現在の近鉄の母体会社となっているのが、1914(大正3)年4月に最初の路線(奈良線)を開業させた「大阪電気軌道(大軌)」。その開業110周年を記念して開催されていたこの特別展。

一世紀を超える歴史を振り返るということもあり、ここまで実に貴重な展示ばかりでした。
続いては、ポスターやリーフレット類の展示。



通勤、通学だけではなく、大阪市内(上本町)から歴史と自然に恵まれた奈良大和路に直接アクセス出来る意味合いは強かったようで、ハイキング誘致なども、盛んに行われていたよう。

この時代の他私鉄でもよく見られる例ですが、新興の私鉄を利用して、郊外の自然散策をすることは当時の流行だったようです。


続いては、沿線で行われたさまざまな近代化事業などに関するリーフレット類が並びます。


「新生駒トンネル完成 大阪ー奈良間大型車全通記念」。奈良方へトンネルを抜けるのは、最新型だった大型車両「900系」。


先日のこちらの記事でも取り上げましたが、大正はじめに大軌が開業させて以来のままだった小規模規格の「奈良線」を改良し、現在標準規格となっている大型車両が全線にわたり運行出来るようにした、というもの。

こちらもどうぞ↑2024(令和6)年11月17日アップ。


大阪・奈良府県境の「生駒トンネル(3,388m)」に替わり、線路の移設を含め、その北側に「新生駒トンネル(3,494m)」をあらたに掘削するということが最大の工事でした。

「奈良線」が現在のような大動脈になれたのもこの事業の完工ゆえなのでした。完成は1964(昭和39)年10月。出典①。



昭和30年代後半から40年代半ばにかけては、大型車両の導入の他にも「奈良線」沿線は大きくその姿を変貌させ、近代化が進められた時期でもありました。以下、出典②。


地下化工事がはじまった直後の「近鉄奈良駅」。

駅を出ると、すぐに交通量の多い併用軌道区間に進入していたものを、現在の地下別線に切り替えるという大がかりなもの。1968(昭和43)年2月頃。



狭隘な地上駅から、自動車などとともにそろそろと走っていた「奈良線」が、一部ルートを変更の上、近代的な駅ビルの直下に位置する「近鉄奈良地下新駅」に移設・開業したのは、1969(昭和44)年9月のことでした。


併用軌道から専用軌道に変更されたことは、列車の増発や増結が可能になる他にも、大型車両に統一された路線の、運転保安度の大幅な向上にもつながりました。出典①。



翌1970(昭和45)年3月15日には、長年大阪方の起点だった「上本町駅(現在の大阪上本町駅)」から「難波線」という形で「近鉄難波駅」まで延伸開業。念願だった大阪市内中心部への乗り入れを果たします。



奇しくもこの日は、先の「大阪万博」が千里丘陵で開幕した日。

そのにぎやかさが写真からも伝わって来るのですが、この難波延伸のみならず、市営地下鉄など現在の大阪市内の都市交通網が整備されたのも、半世紀以上前の万博が契機なのでした。


まさに、激動の時代だったのだなと感慨に耽るのですが、隣には大きなジオラマコーナーが。




こうしたものはいつまでも眺めていられます。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「近畿日本鉄道創業70周年記念 最近20年のあゆみ」近畿日本鉄道編・発行 1980年10月)
(出典②「近鉄80年のあゆみ」近畿日本鉄道編・発行 1990年10月)