おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。
それが、この「680系」という特急専用車両。昭和30年代後半から40年代半ばにかけて、主に「京都・橿原線」系統で活躍したという、2両編成単位の中規模車体を持つ車両でした。
他の路線で見かける特急専用車両とは異なる、特徴のある顔つきです。
その「680系」が主に活躍していた路線は「近鉄京都線」。
「近鉄京都〜大和西大寺間」と、二つの古都を結ぶ34.6kmの路線ですが、これが近鉄の路線になったのは1963(昭和38)年10月。比較的最近のことです。近鉄ホームページより。
「近鉄京都線」はもともと「奈良電気鉄道(奈良電)」という会社が1928(昭和3)年に開業させたいち地方私鉄なのでした。京都にて。
では、ここからは「フリー百科事典Wikipedia#奈良電気鉄道」の項より。
京都と奈良の2つの古都を結ぶ鉄道は鉄道省(国鉄)の運営する奈良線が1896年(明治29年)に開通していただけであり、これは蒸気運転であって速度は遅く列車本数も1日12往復と少ないので都市間交通としては不便であった。

(中略)1927年(昭和2年)7月から線路工事に着手、同月26日に大林組と工事請負契約を行い、小倉 - 西大寺間を4工区に分けた上で、工事が開始された。以下、出典①。
こうして路線建設計画が紆余曲折を重ねつつも進みつつあった1928年(昭和3年)、11月に京都御所で昭和天皇の即位大典が挙行されることになり、この即位大典にあたっては、神武天皇を祀る橿原神宮と大典が行われる京都を直結し、しかも沿線の伏見に伏見桃山陵が所在する奈良電気鉄道線の存在価値は非常に高く、大典までに全線の工事を完成させ、営業を開始することが急務とされた。

同年11月3日に、まず本社所在地でもあった桃山御陵前駅から西大寺駅の間で営業が開始された。全線の営業開始は、儀式がすべて完了した直後の同年11月15日となった。
当初より大軌(注釈:大阪電気軌道。近鉄の母体会社に当たる鉄道会社)の保有する奈良線・畝傍線(現:橿原線)と直通運転を行い、国鉄奈良線で京都 - 奈良間の所要時間が1時間10分であった所を急行が45分、普通が58分で結んだ。

しかし営業成績は当初芳しいものでなく、大軌と提携して京都駅-上本町駅(上六)間の割引乗車券を販売するなど、集客に苦心した。
1928年に京都 - 西大寺間が全通し、即位大典では大きな輸送成績を収めた。しかし奈良電は京阪神のような規模ある経済圏を結んでおらず、通常は京都・奈良もしくは、大阪電気軌道を介した橿原への観光遊覧が大きな収益源であった。

ところで、奈良電は大軌と京阪電車が出資して設立された、いわば「合弁会社」でした。

そういったことで戦後になり、路線の京都側では丹波橋を介して京阪電車(京阪三条〜丹波橋〜近畿日本鉄道奈良、橿原神宮駅間・奈良電京都〜丹波橋〜京阪宇治間)と、奈良側では近畿日本鉄道(西大寺〜近畿日本鉄道奈良間・橿原神宮駅間)などと、相互乗り入れを行っていたことも特徴でした。グーグル地図を加工。

同時に、奈良電をどちらの会社に引き入れるのかという争いが近鉄・京阪双方で勃発することになります。
これは長い間話しがまとまらず、結局、関西財界の仲裁を経て、奈良電は「近鉄京都線」となりました。1963(昭和38)年10月のことですが、相互乗り入れはそのまま継続されます。では、話しは本題に戻ります。
奈良電の旅客は1947年に買出しや復員輸送のためにピークを迎えたが、以後は減少して1954年には最盛期の6割程度にまで落ち込んだ。
奈良電ではその対策として、観光客・通勤客を誘致するために高速運転を行う料金不要の「特急」を1954年に新設することとした。これは近鉄奈良線の上本町駅 - 近畿日本奈良駅間で、同様の「特急」が新設される1956年より2年早いものであった。出典②。

この特急運転開始に伴い、デハボ1200形2両を新造し、さらに1940年に紀元2600年記念式典等に伴う橿原神宮参拝客輸送用として製造したクハボ600形2両を改造・整備し、デハボ1200形-クハボ600形の2両編成2本で運用に充当することとなった。
こうして特急は同年10月23日に5往復体制で運転を開始した。この時は京都駅 - 近畿日本奈良駅間39.0kmを35分(最高速度105km/h、表定速度66.8km/h)で結んだが、これは阪神電気鉄道が本線の梅田駅 - 元町駅間32.2kmで運行していた特急(所要27分、表定速度71.5km/h)に次ぎ、関西地区では2番目に速い列車となった。

その後、この特急運転が好評であったことから順次増発が行われ(中略)1956年5月25日からは6往復、1957年3月21日からは12往復運転となった。出典③。
1963年1月21日からは、2往復が京都駅 - 橿原神宮駅駅間運行となり、京都駅 - 近畿日本奈良駅間運行の列車は10往復となった。(中略)
なお、当時の停車駅は以下の通りである。
京都 - 丹波橋 - 大和西大寺 - 近畿日本奈良(現:近鉄奈良駅)
京都 - 丹波橋 - 大和西大寺 - 大和八木- 橿原神宮駅(現:橿原神宮前駅)。出典④。
停車駅も絞られた、なかなかの快速運行だと感じますが、これで並行する「国鉄奈良線」との利便性でその差を一挙に広げ、京奈間の輸送では現在に続く優位を築くことになります。
ところで、項はこのように続いています。
この「特急」は近鉄にそのまま引き継がれ、1964年10月から同年12月にかけて有料化され現在の「京奈特急(京都〜奈良間の特急)」・「京橿特急(京都〜橿原神宮前間の特急)」となった。(後略)
そう、奈良電から「近鉄京都線」になったことで、看板列車「特急」の運行は「有料特急」に形を変えて継続されるのですが、そこで問題が生じることになりました。大和西大寺にて。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「カラーブックス659 近鉄線各駅停車2 京都・橿原線」徳永慶太郎著・保育社発行 1984年11月)
(出典②「カラーブックス637 近鉄線各駅停車1 奈良・生駒線」徳永慶太郎著・保育社発行 1984年4月)
(出典③「ヤマケイ私鉄ハンドブック13 近鉄」廣田尚敬写真・吉川文夫解説 山と渓谷社発行 1984年7月)