特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン」訪問記〜その14 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。


今回の特別展の目玉だという「奈良線」の前身「大阪電気軌道(大軌)」で使用されていた、布製の「駅名表示幕」とついにご対面です。わくわくします。


さて、当時のターミナル駅だった「大阪」(正確には「上本町駅」)から続く、さまざまな情報が記されたこの巨大な表示幕。

「奈良線」の駅々が続いて行くのですが…


途中から「奈良線」とは異なる別の駅名が並びます。

「西の京(にしのきやう)」「九条(くでう)」「郡山(こほりやま)」に「平端(ひらはた)」。


さらに「田原本(たはらもと)」から「新ノ口(にのくち)」、そして「八木(やぎ)」。



これらの駅々は「大和西大寺駅」から分岐している「橿原線(かしはらせん)」なのでした。

「奈良線」の開業に続き、1923(大正12)年3月に大阪電気軌道(大軌)によって「西大寺〜橿原神宮前間」が全通しています。
ということは、現在の奈良線と橿原線とでは車両は共通で使用されていたということ。


近鉄の路線図をさらに拡大してみるのですが、その出自というものは、実に複雑です。

「奈良線」を含む周辺の路線は大軌の手によるものですが「大阪線(桜井以東)」「京都線」や「南大阪線」「吉野線」などは、まったくの別会社として開業した経緯があります。これらが一手に合併して誕生したのが、今日の近鉄です。近鉄ホームページより。路線図を一部加工。


それでは、この表示幕の様式について詳しく見てみましょう。

左側から「次駅周辺案内・乗り換え案内」、中央に「次の停車駅」、右側に「広告」ほか。これらが横長に連なっています。



この表示幕が搭載されていたのは、大軌が「奈良線」を開業させた当時にデビューした「デボ1形」という、この車両でした。出典①。

2両連結化、集電装置のパンタグラフ化など、時代に合わせて改造が重ねられましたが、昭和30年半ばに廃車。開業当時の貴重な車両だということで、後にデビュー時の姿に復元され保存されます。あやめ池遊園地(現在閉園)にて。


内部の様子。木造ということもあって、車内にはこのような装飾もなされていたのですね。


大阪側の起点「上本町駅」には、開業後しばらくしてから中世の城郭を思わせるような、百貨店も入る巨大な駅ビルがつくられました。

建て替えられる1970年代まで、周辺のシンボル的存在だったといいます。出典②。



ここを起点に発着していたのが、デボ1形以来の「奈良線」でした。

うるし塗りの底光りする車体、と解説にありますが、竣工直後でしょうか、ぴかぴかです。


車内は、通勤通学の利用を見込んだ3扉。この時代は2扉一択でしたので近代的な設えだと思えますが、なんとも上品な雰囲気です。沿線の人々にとっては驚きだったに違いありません。


運転室と車掌が詰める前後部、その仕切りの鴨居あたりに設けられていたのが、くだんの布製駅名表示幕なのでした。

確かに、3面に分かれています。


車掌が運転室内の紐を引くと、ベル音とともに
幕が作動。次駅や案内、広告が切り替わるというもの。いや、これはすごいアイデア。おもしろいですね。


しかし、アナログとはいえど、利用客にわかりやすい案内だと感じます。広告までちゃっかり?掲載しているのも、なんだか先進的です。


展示を拝見していて気づくのですが、これ、今日普通に見かける車内の、LEDやLCD式の案内と目的がまったく同じではないですか。





次駅や乗り換え、広告などを表示するものでおなじみですが、このアイデアを大正時代に実現させていたということにあらためて感嘆します。いや、すごい。「特急ひのとり」車内にて。

さらに、次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「ヤマケイ私鉄ハンドブック13 近鉄」廣田尚敬写真・吉川文夫解説 山と渓谷社発行 1984年7月)
(出典②「カラーブックス637 近鉄線各駅停車1 奈良線・生駒線」徳永慶太郎著・保育社発行 1984年4月)