みなさんこんにちは。前回からの続きです。

今年3月、期間限定で発売されたJR東日本全線乗り放題の企画乗車券「キュンパス」で、その北東北の未乗線区を乗り鉄した旅日記をお送りしています。



旅の第2日目(2024年3月12日)。

ただいま「新青森駅(青森市)」です。



ここに来て残るJR東日本未乗線区はあと2つ。この駅から発着する「東北新幹線(新青森〜八戸間)」と、津軽半島の突端に向かう「津軽線(蟹田〜三厩間)」のみとなりました。JR東日本ホームページより。


しかしながら、後者の「津軽線」の未乗区間は現在、運休中。さらに、運行されている代行バスにも時間的な制約があり、乗り鉄は難しいということで残念ながら未乗に終わりそうだ、ということを、前回記事で触れて参りました。



ただ、手つかずの豊かな自然の中を走り、竜飛岬の間近まで到達する「津軽線」北半分の未乗区間。残念ながら今回、乗り鉄出来ませんが、少しでもその気分を味わいたいと、少し掘り下げてみることにしたいと思います。


さいはての終着駅「三厩(みんまや、青森県東津軽郡外ヶ浜町)」と、有名な竜飛岬については先日記事から度々登場、全国47都道府県を鉄道駅から詳しく取り上げる「各駅停車全国歴史散歩3 青森県(東奥日報社編・河出書房新社刊 昭和57年1月発行)」から拾ってみます。



「この部落を過ぎて路はない」

(注釈:「部落」は「集落」の意)

三厩


本州最北の宿場町
三厩駅は津軽線の終着駅である。ここまで来ると津軽海峡の向こうに北海道の山並みが迫って見える。ここは松前(北海道)とは一衣帯水なのである。藩政時代、参勤交代の松前藩主がこの三厩に船で着き、ここで籠に乗り換え、松前街道を南下して江戸へ向かった。(中略)


本州の袋小路
"アワビ街道"と呼ばれる海岸沿いの曲がりくねった道をバスで約30分行くと、津軽半島北端の竜飛岬に着く。太宰治が名作「津軽」で「この部落(注釈同)を過ぎて路はない。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである」と表現したように、本州はここで行き止まりとなる。(中略)

竜飛岬に登ると風が強く、夏でも吹き飛ばされそうになる。ここは日本でも有数の強風地帯なのである。最近、岬を一周する遊歩道が出来、30分もあればもとの場所に戻って来られる。


この小さな岬には太宰治文学碑のほか、吉田松陰、川上三太郎、佐藤佐太郎らの詩碑、歌碑もあり、さしずめ歌碑の岬とも呼べそうである。


ところで、竜飛岬は本州最北端の地。
一年を通して強風が吹き荒れ、そのために人家も極端に少ない、荒涼としたところです。

しかし、三厩から竜飛岬にかけてはかつて、青函トンネルの建設に当たって、その竜飛基地が設けられていました。



これについては、大変印象に残っている番組があります。録画していたNHKの「プロジェクトX」の回。こちらもどうぞ。(「友の死を越えて〜青函トンネル・24年の大工事」2021年4月6日再放送より。)



青函トンネルの基地
本州の最北端である孤高の岬も、青函トンネル工事が始まると様相が一変した。この青函トンネルは完成すれば、ドーバー海峡(注釈:イギリス・フランス間の海峡)に計画のある51.85キロを超す53.85キロの世界最長の海底トンネルとなる。

昭和42年から始まった世紀の工事は順調に進み、海底部のドッキングまであとわずか。工事に関係した近代的な建物が林立し、工事用の産業道路が縦横に走る竜飛岬。今、ここに立つと、電灯もなかった十数年前の姿を想像することは出来ない。(後略、P200-201)



しかしながら、津軽半島の最北端部という位置関係から、青函トンネル青森側の基地となった竜飛。大変過酷な環境だったことが窺えます。



長らく人が住めなかったこの地に、基地と工事関係者の居住区が建設されたのは、1966(昭和41)年春のこと。いちからの街づくりだったといいます。



絶えず風速は平均30km/hを計測、台風並みの強風が毎日のように吹き荒れる、というこの地。

毎日、台風の中で生活を送ることを余儀なくされる、それも工期は20年以上に及ぶ難工事だった訳ですから、想像を絶するものです。


新幹線に乗ると、青函トンネルをはさむ青森・函館間は、最短で1時間を切るほどにまでになりました。農産物など、貨物輸送においても定時性が担保されることになり、大生産地・北海道の地位は大きく飛躍することにも至ります。


さいはての地、というノスタルジーだけでなく世界最長の海峡トンネル建設の、いわば最前線となった地。さまざまな意味合いを、三厩や竜飛岬というところは持つものなのだなと、ふと感じるものです。いつかは訪れたいものです。


次回に続きます。
今日はこんなところです。