みなさんこんにちは。前回からの続きです。
3月16日の「北陸新幹線 敦賀〜金沢間開業」と入れ替わり、長年親しまれた在来線特急が姿を消した、敦賀から先の「北陸本線」。
全国的にも稀少な「特急街道」を最後に味わいたいと、大阪発「特急サンダーバード」に乗り、昨年11月に石川・金沢周辺をさまざま日帰り乗り鉄した際の道中記をお送りしています。

「北陸鉄道(北鉄)石川線」に初乗りを終え、終着の「鶴来駅(つるぎえき、石川県白山市)」 から延びる廃線跡を辿っているところ。
本題の「石川線」廃線跡の北側に、「能美線(のみせん)」という別の路線が並行していたこと、さらに「本鶴来駅」という駅が存在していたことがわかった、前回までの記事でした。

いまは「石川線」が折り返すのみの終着となった鶴来ですが、かつては各方面に路線が延びていた拠点駅。
内陸部の鶴来から見ると東方の日本海側、「国鉄北陸本線 寺井駅(現在のIRいしかわ鉄道 根上能美駅)」までを結んでいたこの「能美線」について、掘り下げてみることにいたします。

ところで、さまざま調べていますと大変すばらしい資料を見つけました。
「能美電ものがたり」。「北鉄能美線」は「能美電」という愛称で親しまれていたといいます。

線名の由来となっていて、沿線の殆どが属していた当時の「能美郡」。グーグル地図より。
平成の大合併で2005(平成17)年2月に郡域の多くは「能美市」へと生まれ変わりましたが、これは市域を東西に縦貫していた「能美線」を回顧しようと市が2014(平成26)年に企画したイベントの、貴重な資料なのでした。出典①。


それでは、資料に沿いながら「能美線」の歴史について見てまいりたいと思います。

県下、能美地域に鉄道が開業したのは、1899(明治32)年「北陸本線 米原〜富山間」開業に遡ります。当時は駅はなく、誘致合戦を経て「寺井駅」がつくられたのは、1912(明治45)年のこと。
さらに1921(大正10)年には、能美地方東端のここ鶴来まで、金沢市内の白菊町から「石川電鉄(現在の石川線)」が開業。
これと連絡が強く望まれるようになりました。

そして1925(大正14)年8月に「新寺井〜本鶴来間」が「能美電気鉄道」の手により開業。これが「能美線」の誕生でした。


東側の起点は「新寺井駅」。
省線(→国鉄→JR)の「寺井駅(現在のIRいしかわ鉄道 根上能美駅)」に隣接しており、貨物輸送のためレールはつながっていました。
そこから東方向、白山麓に向かい、かつての能美郡を構成していた町村を連絡するように線路は敷かれていたことがわかります。

戦前から昭和30年代までの地方私鉄では、貨物輸送は旅客輸送とともに大きなウェイトを占めていたのはよく耳にするエピソード。
さらに「能美電」の沿線は、かの有名な「九谷焼」の一大産地。
「旧能美郡寺井町」の中心にあった「新寺井駅」の解説を読んでいますと、九谷焼の全国出荷においては、この「能美線」が大きな役割を果たしていたことがわかります。出典②。
さらに、知る人ぞ知る名湯「辰口温泉(たつのくちおんせん)」もこの沿線に。
貨客輸送ともににぎわっていたのですね。

列車は「辰口温泉」を出ると、ほどなく鶴来が近づきます。手取川をはさんだ向こうは「石川郡鶴来町」。現在は「白山市」と異なるあたり、ここが区域の境になっていたのですね。
ところで、大正14年に開業した際の路線図では「能美線」はその手取川を直前にした「新鶴来」という駅が終着になっており、その横には「天狗岩」というただし書きが。

ここまでの記事でも「手取川」については度々触れてまいりましたが、鶴来の街の西端に位置していたこの場所は、断崖絶壁が川の激流で浸食された、極めて険しい岸壁でした。

最初に開業した際には、この天狗岩周辺の工事が間に合わず、鶴来を発着する石川鉄道とは川をはさんでの連絡を余儀なくされたとのこと。
難工事の末、断崖絶壁に出る「天狗山トンネル」を掘削し、それに続く「手取川橋梁(天狗橋)」が完成したのは、昭和7(1932)年のこと。
難工事だったこれら区間の開業で、能美線はようやくにして、金沢市内の白菊町(昭和45年旅客営業を廃止)や野町、加賀一の宮や白山下に向かう「石川線」が発着していた鶴来に乗り入れることが出来たのでした。
先ほどまで探索していた、2線が合流する場所はまさに「手取川越えの悲願」が結願したところなのでした。
以降、ともに北鉄となり「新寺井〜鶴来〜白山下間」という他に、「新寺井〜鶴来〜野町・白菊町間」という系統も設定されたことで、北陸本線沿線から内陸部の鶴来を経由し、金沢市内に向かうことも出来るようになったといいます。興味深い変遷です。出典③。

しかし、この「手取川橋梁」と「天狗岩トンネル」の大迫力たるや。絶壁から顔を出すトンネルを掘るだけでも難儀しただろうに、その先には川幅も広く、急流の「手取川」が流れているのですから。
現在でも、難工事の類に違いありません。

このような絶景の車窓というのは、あまり見たことがないほど。当然?沿線最大の名所名物になっていたようです。しかし、すごいもの。


ただし、他の鉄道路線同様、昭和30年代以降のモータリゼーションで乗客は年々減少。


さまざまな対応が取られるものの苦境の改善は難しく、惜しまれながら全線廃止となってしまいました。1980(昭和55)年9月のことだったといいます。
よくよく考えますと、石川線に対して、こちらは廃線から40年以上が経過しているもの。
よく鉄橋や路盤が遺されていたなと、感心してしまいます。


現在だけの姿を見れば、金沢市内から行き止まりの路線が折り返すのみの、ここ鶴来。
しかしながら、現役そのままに放棄され、朽ち果ようとするかつての線路跡には、鶴来がかつて交通の要衝としてにぎわっていた、その名残が確かにあったのでした。

こうしたことを知ることは実に興味深いもの。乗り鉄には、深い意義があるものだとあらためて感じた次第なのでした。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①)
https://www.city.nomi.ishikawa.jp/www/contents/1001000001291/index.html
(出典②「フリー百科事典Wikipedia#九谷焼_古九谷色絵牡丹獅子文銚子=重要文化財、東京国立博物館蔵=」)
(出典③ 北陸鉄道広報誌「ほくてつニュース」2023年10月号)