みなさんこんにちは。前回からの続きです。

来月16日の「北陸新幹線 敦賀〜金沢間開業」と入れ替わり、長年親しまれた在来線特急が姿を消す、敦賀から先の「北陸本線」。


全国的にも稀少な「特急街道」を最後に味わいたいと、大阪発「特急サンダーバード」に乗り、昨年11月に石川・金沢周辺をさまざま日帰り乗り鉄した際の道中記をお送りしています。




ただいま、大阪から乗車している「特急サンダーバード1号 金沢ゆき」の車中。列車は、びわ湖西岸を走破する「湖西線」を走っています。


右手に穏やかな水面がどこまでも続くびわ湖。厚い雲に覆われた空から、薄っすらとにじむように差し込む朝日は、実に幽玄です。曇天は曇天で味わいがあります。



さて、ここまで京都を出て20分あまり。湖西線も終わりが近づいて来ました。


それと同時に、車窓を愉しんで来た右手のびわ湖もこのあたりが北端。湖西から、湖北に移り変わるところ。列車は、長いトンネルが連続する区画に差し掛かります。グーグル地図より。




「永原駅(滋賀県長浜市)」からトンネルを抜けました。ずっと右手について来ていたびわ湖とは、ここでお別れ。右端がまさにその北端に当たります。なんだか、寂しくもありますが。



広々としたびわ湖の車窓から一転して、このあたりからは両側に山々が迫って来ます。一気に山岳路線になったようですが、これほどすっぱりと車窓が変わるところも珍しいものです。



そして、右手から近づくのは「北陸本線」。

長浜、米原方面からの路線ですが、長年、関西と北陸方面とを結ぶ列車は、この北陸本線で米原経由でした。


直線主体で、全線高架の湖西線が1974(昭和49)年7月に開業した後は「サンダーバード」や前身の「雷鳥」は「北陸本線・東海道本線(琵琶湖線)」から湖西線経由に変更、全体の所要時間は30分弱の短縮が図られます。出典①。


つまりは、関西と北陸方面との鉄道輸送に大きな貢献を果たしている湖西線なのでした。

その湖西線が、米原からの北陸本線と合流するのが「近江塩津駅(同)」。



プラットフォームは4線、側線もありと規模は大きいのですが、特急などの優等列車はすべて通過。この区間では各駅停車の、京阪神方面からの新快速が主に停車する駅です。



ところで、海のない滋賀県にありながら、駅名や地名に「塩」が入るこの駅。なにかいわれがありそうです。



それでは、先日記事でも登場した「各駅停車全国歴史散歩26 滋賀県(京都新聞滋賀本社刊 河出書房新社発行 昭和56年8月)」より。


日本海の塩運んだ港

近江塩津


船便が一日に二往復

北陸本線と湖西線の分岐駅、近江塩津から西南へカーブ、山あいを走りトンネルをくぐると永原。近江塩津と永原、この二つの駅のあるのが西浅井町(にしあざいまち)だ。



近江塩津は西浅井町(注釈∶伊香郡西浅井町。2010年1月、周辺の町とともに長浜市に編入)の北東部にあたる。


もともと塩津とは日本海の塩を都(京都)へ運ぶ集積地のことで、ここもまた、琵琶湖を経て運ぶ港として、古くから開けていたようだ。(中略)



江戸時代になると、大津に向け琵琶湖の便船が一日に二往復していた記録がある。ほとんどが北陸〜京都の旅人や貨物で、明治の初めまで問屋街・港町と呼ばれていた。(中略)



明治13年の統計では「日本形船舶570隻 西洋形汽船20隻」とある。小舟も入れてのことだろうが、交通の拠点として出船・入船でかなりにぎわっていたようだ。(P78)



なるほど、塩街道の中継点だったことが由来だったのですね。そういえば「津=港」ですからまさに、この地が果たしていた役割がそのまま

地名になったということ。



これから向かう、府県境を越えた敦賀(福井県敦賀市)は日本海に面した港町。


一見遠いように見えますが、塩はじめ海産物を都(京都)へ運ぶには、びわ湖を経由するのは最適なルートだったことが窺えます。内陸地では塩が重要だったのは、有名な話しです。



そういえば「鯖街道」で有名な、小浜から山々を南下するルートもあります。少し西に離れていますが、これも京の都へ海産物を運ぶもの。 

都に向かう道筋のはじまりというものは、本当に歴史があるものだと感心します。


さていよいよ、本題の特急街道「北陸本線」に入ります。

北陸の玄関口、敦賀は峠を越えたところです。


次回に続きます。

今日はこんなところです。


(出典①「JTB時刻表 2023年3月号」JTBパブリッシング発行)