みなさんこんにちは。今日の話題です。
さっそくですが、今日は自ブログのトップページから。
鉄道の話題を中心にお送りしている拙ブログですが、その紹介文に実は「心の拠り所にしているロックシンガーソングライター・松阪晶子さん」というくだりがあります。
松阪晶子(まつざか・しょうこ)さん。
1993(平成5)年、21歳でメジャーデビューした、女性ロックシンガーソングライターです。
普段の記事では、取り上げることがあまりないのですが、今日、2月20日に52歳の誕生日を迎えられました。おめでとうございますm(_ _)m
そういったことで、わたしが晶子さんに出会った衝撃的なきっかけや、デビュー以来30年あまりにわたり、心の拠り所になっている経緯などを、晶子さんの生まれ故郷・盛岡を聖地巡礼した、以前にアップした記事を再びお送りすることにいたします。思い切り独り語りです(汗)
https://ameblo.jp/kyle-of-lochalsh/entry-12477850880.html
初夏の宮城・岩手をひとり旅2017 その9~シンガーソングライター・松阪晶子さんの故郷を訪ねて(2017年7月29日アップ)
みなさんこんにちは。前回からの続きです。
初夏の宮城・岩手両県を巡るひとり旅、最終日を迎えました。
やって来たのは「いわて銀河鉄道 盛岡駅」(岩手県盛岡市)。東北新幹線八戸開業(平成14年)に、JRから並行在来線となった東北本線を移管された、第三セクターの鉄道会社です。
「銀河鉄道」と聞くと、やはりご当地の詩人、童話作家の宮沢賢治(1896-1933)の作品、「銀河鉄道の夜」にまつわる社名でした。
いや、またこちらでも「鉄道むすめ」に遭遇しました。
鉄道模型などの玩具メーカー「トミーテック」が展開しているシリーズなのですが、結構、あちこちの鉄道会社に居るのですね。
「いわて銀河鉄道」のキャラクターは「小鳥谷(こずや)スピカ」さん。
しかし、これまで遭遇した「鉄道むすめ」とはちょっと印象が違いますね。アイドルのようです(大概はその鉄道の従業員という設定になっている)。
改札を入りますと、ブルーの帯が彩やかな電車がすでに発車待ちをしていました。なかなかさわやかなカラーです。
略称で「IGR」とも呼ばれているそうです。
乗車するのは「好摩(こうま)ゆき」(同)。
ここから20分ちょっと北へ進んだ、秋田県の大館へ抜ける「JR花輪線」が分岐する駅です。
それでは、さっそく2両編成の列車に乗り込みます。
ほどなく発車。
ところで、先ほども少し触れたのですが、もともとこの路線は「JR東北本線」として運行されていたのですが、平成14(2002)年12月の「東北新幹線八戸延伸」で並行在来線となるこの「盛岡~八戸」までの区間は、JRから経営分離され、第三セクター方式の別会社に転換されました。
その区間は岩手・青森両県にまたがっているのですが、県境にあたる「目時駅(めときえき、青森県三戸郡三戸町)」が境界になっており、青森県側はその名も「青い森鉄道」という、同じく第三セクターになっています。
盛岡駅から3分ほど、最初の停車駅の「青山駅」(同)で下車。
盛岡駅からは4~5kmほどのところで、周辺は新旧取り混ぜた住宅街が広がっています。
JR時代には駅は設けられていませんでした。ヤフー地図より。
複線をまたぐ跨線橋から盛岡方面を望む。
東北新幹線の重厚な高架が近づいて来ます。
今度は、反対の目時・八戸方面を望む。この先、しばらくは新幹線と並行して線路が延びていくさまがわかります。少し眺めていますと、踏切は結構な交通量です。
それでは、この「青山駅」周辺を少し散策してみることにするのですが…
ところで、ここからは先日の記事から触れております「わたしにとって盛岡という土地が特別な場所」ということについて述べて行きたいと思います。
いま、わたしが訪れている盛岡は、わたしのブログタイトル「ありのまま生きてこう 自分を磨きながら」(「いつもと違う朝」という楽曲の一節から)とその下の「一言メッセージ」を拝借している、シンガーソングライター・松阪晶子(まつざか・しょうこ)さんの出身地です。
では、毎度おなじみ「Wikipedia #松阪 晶子」から拾ってみます。
松阪 晶子(まつざか しょうこ、本名:松坂 康子(まつざか やすこ)、1972年2月20日 - )は、日本のシンガーソングライター。
岩手県盛岡市出身。血液型O型。父は民謡の先生、母は民謡の踊り手。
3歳から両親の指導のもと民謡、舞踊を始める。
中学入学後、ロック音楽に開眼し、メジャーデビューまでアマチュアバンド「蜃気楼」で主にボーカルとして活動しつつ、両親との約束であった民謡との音楽活動の両立を果たす。高校は入学と当時に、担任と喧嘩をし、担任の顔に熱いお茶をかけ自主退学する。
1990年、上京し、楽曲、デモテープ作りに没頭(1stアルバム「夢を眠らせない」のうち、ほとんどの楽曲をこの時期に制作したという)。
1993年6月2日、東芝EMIよりシングル『まっすぐに/Darlin'』でメジャーデビューする。 その後、ドラマ主題歌に起用されスマッシュヒットとなったシングル『満月』(1994年3月9日)、『燃える瞳を持ち続けて』(1994年5月11日)、『伝わりますか』(1995年2月22日)などを発表。
1995年4月18日、渋谷公会堂(現・渋谷C.C.Lemonホール)で初ライブを挙行。(コンサートの内容を収録した「SHOKO MATSUZAKA FIRST LIVE」と称した番組が後日NHK-BSにて放送された)
1998年、バンダイ・ミュージックエンタテインメントに移籍。シングル『はつ恋』(1998年11月21日)リリースの後、音楽活動を休止している。
という概略なのですが、晶子さんは、民謡の歌い手である父、踊り手である母、という家庭に生まれてから18歳までの間をここ盛岡で過ごしています。
わたしが晶子さん(の楽曲)と最初に出会ったのは、いまから23年前の平成6(1994)年、高校生の頃だとはっきり覚えています。
晶子さん最大のヒット曲、そして代表曲となった「燃える瞳を持ち続けて」という楽曲が、とある宝飾品販売会社(当時、バンバンCMを流していた「銀座ジュエリー・マキ」…あっ、言ってしまった笑)のCMソングとして使われていて、それを見聞して以来のファンです。
なので、思い焦がれるおつきあいがヨメハンより長いという(笑)
時代は、いわゆる「ガール・ポップ」の全盛期でした。
いまでは想像もつきませんが、毎月のように「J-POP」というカテゴリーで若い女性シンガーがデビューするような状況で、その時代の若者の例にもれず、わたしもさまざまな女性シンガーの楽曲を聞いていました。
ですが、今日ここまで(今後もだと思いますが)晶子さんの楽曲に、そしてその音楽観に惹かれる所以というのは、歌詞、曲の両方にわたり、実に琴線に触れる表現がすべての楽曲に共通していること、その絶妙な、実に地に足をつけた歌詞や楽曲で表現されている世界に自分自身の姿を投影することが出来たことではないかとわたしは思っています。
晶子さんに出会ってから、自分が苦しい時、つらい時、心が折れそうな時…
自分の背中を押してくれたのは、いつも晶子さんの楽曲でした。どれだけ支えられて、助けられたか。それは「ありがとう」という感謝の言葉だけでは決して表現出来ない、実に深遠なものでした。
おりしもわたしの思春期から大人になるという頃という間でしたから、わたしは晶子さんを、わたしの考え方や行動といった「自分の根幹をつくってくれた人」だと信じています(おそらくこの人と出会わなければ、今日のわたしというのは存在し得なかったと思っています)。
ということで、ここで晶子さんが生まれ育った盛岡の地を、いまはやりの「聖地巡り」をして来ました。当時、聞いていたラジオ番組で触れられていた東北新幹線の線路沿いの中学校、ここは晶子さんの母校だそうです。敷地外から撮影。
ではここで、その晶子さんにまつわるインタビュー記事をひとつ拾ってみたいと思います。盛岡で生まれ育ち、音楽の世界にどっぷり浸っていた環境が、実は結構「特別なもの」だったということもわかります。
※平成6(1994)年6月、ファースト・アルバム「夢を眠らせない」をリリースした頃のインタビューです。
―すでにシングルが5枚も出てて、しかも全曲タイアップつきの快挙!
「もうびっくりですね。自分では、シングル用とか、アルバム用なんて考えて曲を作らないから」
―1stアルバムからすでにベスト・アルバムみたいな感じですね。
「実は収録曲の多くは、デビュー前に作ったものなんです。出身が盛岡なんですけど、上京(平成2年)してから3年間はデモ・テープ作りをしてまして。不安だし、色々悩んだ時期でしたね。そんな気持ちに区切りをつけたくて、あえて当時作った曲を選びました。もちろん今でもアルバム2、3枚出せるくらいの作品が溜まってますけど」
―すごい…で、そもそも歌を始められたキッカケってのは?
「来ましたね!それが、歌は嫌いだったんですよ」
―えっ!
「両親が民謡の先生だったんです。父が歌で、母が踊りを教えてて」
―素晴らしい環境じゃないですか。
「3歳からスパルタ教育。だからイヤでイヤで。反動で中2の時、バンドを始めましたね。レベッカとかを歌ってたんだけど、これがコブシがまわっちゃうという(笑)」
―なのに民謡歌手にならず、ロック方面に進んだと。
当然、御両親の反対があったんじゃないですか?
「猛反対。『大馬鹿者!』って。私は一人っ子だし、親からすれば後を継ぐべき人間でしたから」
―それでも自分なりに歌おうと決意した背景は?
「高校入学直後、ヤマハのバンド・エクスプロージョン盛岡大会に出たんです。しかも自分のバンドではなく、友人の代打で出たらボーカル賞を貰っちゃって。それが地元の雑誌にドンと載ったら、狭い田舎町なんで話が広がって『デビューするんでしょ?』になってしまった(笑)。学校にも伝わって大騒ぎですよ。あげく生活指導の先生に『お前の家は芸能関係で自由にやってるもんだから』って言われて。それでプッツン!家の事を何だかんだ言われるのが一番嫌なんです。先生にお茶をかけて、学校はやめました」
―過激な事件が(笑)。
これはもう、シンガーとして身を立てるしかありませんねえ。
「親は『何やってくれたんだ!』と(笑)。怒ってしばらく反対してました。
でも私が、88年から89年にかけて出場した各コンテストで、ボーカル賞をいっぱいもらったんです。そうしたら父が『これだけ賞がもらえるのなら、ロックで成功出来るだろう。やりなさい』って許してくれた」
―今22歳でしょ?その若さで、すでに気合の入った人生ですね。
「ステージ魂というか、プロ魂でしょうね。3歳から舞台に立ってたから、どんなに具合が悪くても『歌いなさい』と言われてましたもん。気を抜いて歌うと父にバレますからね。私のライブは必ず見に来ますよ」
―それ怖いなあ(笑)。
「もちろん、父はロックなんかわからないんですよ。ただボーカルの通りがわかるんですね。歌心…ハートがないと歌は歌えない。父は74歳なんですけど、現役ですよ。自分が歌うことに喜びを感じてるという人。誰にどう思われたいとか、そんな邪心がないんです。私もやっぱり歌えるっていうだけで嬉しいですね。多分ババアになっても歌ってると思う」
―ひょっとして、憧れのシンガーとか、影響を受けたバンドってないんじゃありません?
「ないです。憧れの人もいません」
―とするとやはり父親の存在がデカいですねぇ、これは。
「そうですね、師匠ですから。稽古の間は完璧に師匠と弟子ですよ。もうお相撲さんの世界と一緒。若乃花、貴乃花と同じ」
―ひえ~!それで作曲するにあたって必要な楽器の弾き方は、どなたかた教えられてたんですか?
「独学です。民謡ってヒアリングなので楽譜がないんです。だから楽譜に触れたらハマりましたね」
―ひたすら努力。
「でも自分が楽しいことだから出来るんですよ、きっと」
―夜の街でブイブイしてみたいなんて思ったりしないんですか?
「私、4年間東京に住んでて、一人で渋谷に行ったことすらないんです。出不精なんでしょうねえ。人込みが嫌いなんで。友達にはよく化石とか天然記念物とか言われる」
―でも、その外界との接触が曲が書けたりするんじゃないのかなあ。
「私はダメですね。でも何億人かの中で、一人くらいはこんな化石人間がいてもいいと思うな」
そう、ひとつ言い忘れていたのですが、晶子さんの楽曲にわたしがいまでも一途に惹かれる理由というのは「どんな人間でも弱いもの」「どんな人間でも挫けるもの」だということが楽曲の根底に表現されていて、そこには「そんな弱い自分でも、ありのままの姿でなんら恥ずべきことではない。
ありのままの自分を信じ、さまざまな経験をしながら自分らしく生きることがいちばん大切なことだ」(わたしのブログのタイトルは、それをテーマにした「いつもと違う朝」という楽曲の一節から拝借しています)という、人生を送る上で最も大切なこと、ある種の「尊い人生観」を指し示してくれている、ということでしょうか。
「弱くても、挫けてもいい。失敗してもいい。それが人間のあるべき姿なのだから。大切なのは、それを受け容れてどうやって自分らしく生きるのか」…
そういったスタンスが晶子さんの楽曲の根底には常にあり、それは他のシンガーにはない唯一無二なものでそれに惹かれているのだろうと。
自分の考え方や行動に、実に多大な影響を受けたお方だと感謝しています。
そういう経緯があって、このブログでは晶子さんにまつわることを何かしたいということで、ブログタイトルを拝借したり、一言メッセージを使わせて頂いたりしている次第です。
願わくば、もういちど歌って頂きたいです。その日が来ることを、いつまでも待っています。
今日はこんなところです。