会場は「千里ニュータウン情報館(阪急南千里駅前)」。地元の方々が捉えたといういままで見たことのない、貴重な写真を拝見しているところ。
現在も「太陽の塔」がそびえる、万博会場の中央口と一体化していた「万国博中央口駅(大阪府吹田市)」と、それを終着駅にしていた「北大阪急行電鉄(北急)会場線」について、引き続き展示からあれこれと述べております。
万国博開幕の約1ヶ月前に全線開業した「会場線」こと「北大阪急行電鉄(北急)〜地下鉄(現在のOsakaMetro)御堂筋線」での相互乗り入れ。
2つあった鉄道での会場アクセスのうち、約2000〜2400万人を輸送した、メインルートでした。グーグル地図より。

間もなく「万国博中央口駅」に到着しようとする列車。車窓からこのような未来都市が俯瞰出来たならば、これからさぞかし観客のみなさんはたまらんかったでしょうね。
背景に恐竜のような姿形の建物は「オーストラリア館」。会期終了後、シドニーと港湾を通じて姉妹都市の関係にあった三重・四日市市に移設され、最近まで一般開放されていたものです。
偶然ですが、訪れたことがありました。下から覗くとデカかった!出典①。
ところでこの会場をバックにしたショットの、その下に展示されていた写真。
あれ、ステンレスやアルミの銀一色の最新型車両に統一されていたはずの「北急」に、なぜか色付きの車両。それも4両編成です。開幕初日(1970年3月15日)撮影。
解説によると、これはVIP専用の「貴賓車」だったとのこと。はじめて見聞きしたのですが、走っているのは一世代前に登場した「50系」という車両です。

ではここで、手元の「カラーブックス日本の私鉄18 大阪市営地下鉄(赤松義夫・諸河久共著、保育社刊、昭和57年9月発行)」から拾ってみます。穴が空くほど、読み倒した本です。


初版が昭和57年(1982年)ということですのでこの当時の最新型車両は、御堂筋線を走るこの「10系」。昭和50年代から平成、さらに令和にかけて、同線の顔として活躍を続けました。
高い省エネルギー性能を有した車両で、なんと言っても冷房を搭載して登場したことは、地下鉄に冷房車自体が希少な頃、特筆されることでした。昨年、2022(令和4)年7月に全車引退。


そして、万博開催による大量輸送のために多数製造されたのが、前回も触れたこの「30系」。
万博の頃はまったくの無塗装でしたが、後年の1976(昭和51)年にラインカラーと路線名が正式に制定され、御堂筋線所属のものは「赤色」の帯をまとうようになりました。わたしなどはこの方が見慣れたもの。

ATC(自動列車制御装置)の器具を設置するためのことでしたが、小さい頃にはかぶりついていてもこれが高くて高くて、なんにも見えずに残念な思いをしたのを思い出しました(汗)

1970年(昭和45年)の日本万国博覧会(大阪万博)開催を前に、御堂筋線では30系への置き換えが実施されたが、予備車を含め4両編成2本はVIP輸送車として改造された。
これは各国からの貴賓が渋滞に巻き込まれないための対策と警備上の問題のある場合を考え交通局が用意したもので、車内通路にベージュ色の絨毯と肘掛け付きソファーを一両につき5脚と英語案内用テープ放送設備、ユニットカー永久連結部の貫通路に仮設の妻引き戸を取り付けた。
万博期間中は車両基地でいつでも出庫できるよう整備されていたが、道路混雑が想定より激しくなかったことから実際に使用される機会はなかった。出典②。
しかし、出番がなかったというのは幸い、だったのでしょうね。ただ、絨毯敷に肘掛けソファまでもが備え付けられていたという、その車内も気になります。平成はじめの廃車まで冷房すらなかった50系なので余計に、ですが(汗)
大変、貴重な車両の姿をはじめて拝見することが出来ました。ありがたや。
ところで、前回から触れております万博会場の中央口に直結していた「万国博中央口駅」。駅名の通り、万博期間中に開設された駅。
ただ、北急の路線図を確認しますと、路線は数キロも手前の「千里中央駅(大阪府豊中市)」止まり。万博会場、後の万博記念公園付近には、線路の跡形もありません。千里中央にて。
実は北急は、この「千里中央〜万国博中央口駅間」に応急的(臨時的)に線路を敷いて、観客の輸送に当たっていたのでした。
いわば「会期中の半年間だけ存在した幻の会場線(正確には、開業は開幕の約1ヶ月前)」。
現在の北急の路線網とはまったく異なる、極めて特異な性格を持つ路線でした。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「フリー百科事典Wikipedia#オーストラリア館」)
(出典②「フリー百科事典Wikipedia#大阪市交通局5000形電車」)