今年6月に限定で発売された「近鉄全線2日間フリーきっぷ」で巡った、近鉄沿線乗り鉄道中記をお送りしています。
佳境に入った旅の第2日目(2023年6月14日)。
念願だった「観光特急 あをによし」の指定を幸いに取ることが出来て「近鉄京都線」で京都へ向っているところです。
「あをによし」が走るのは伏見の街。終着「京都駅(京都市下京区)」まで、まもなくです。以下、グーグル地図より。
ところで前回の記事で触れた「桃山御陵前駅(同伏見区)」の京都駅方から別れる、なにやら不自然なスペース。架線柱は広く取られ、その下にはもう一線が敷けそうな用地があります。
「かつて奈良電気鉄道(→後に近鉄京都線)と京阪電車が相互乗り入れしていた」と、前回の記事で述べたのですが、実はこれ、すぐ左側(西側)を走る京阪電車の線路へ繋がっていた連絡線の跡なのでした。
車窓から、これを追ってみます。
列車は右にゆるいカーブを取りながら、次の「近鉄丹波橋駅(同)」へと向かうのですが…
くだんの不自然に広い架線柱と、敷地の先には一戸建て住宅が並びます。開閉式のバリアで遮られた道路も連絡線の跡地。これが、同じ方向で横にずら〜っと続きます。
その向こうに見えるのが、京阪の架線柱。
再び列車は住宅街の中に入り、敷地は京阪の緑化された線路の敷地へ。そして「京阪丹波橋駅」の下手(大阪方)、4番線から延びるこの行き止まりに繋がっています。
近鉄の方は、ゆるい右カーブを曲がり切るとそのまま北上し「近鉄丹波橋駅」に到着、という車窓です。
車窓という側面だけの眺めではわかりにくいので、毎度おなじみグーグル地図より。
桃山御陵前から丹波橋へと向かっています。
さらに拡大。分岐地点から右は本線、左の一戸建て住宅が線路跡ですが、先ほど触れたように、細長い斜めのスペースに、まわりとは明らかに住戸の向きが異なっています。
すなわち、廃線跡をトレースするように建てられていることがわかります。これは興味深い痕跡です。
道路の先にも住宅街が延び、その先は「京阪電車 丹波橋駅」の構内へと続いています。
まさにこのルートが「奈良電(近鉄京都線の前身)〜京阪電車」への連絡線だったのでした。

先ほども登場したショットですが、これは地図↑★から「京阪電車 丹波橋駅」を望んだもの。
1999(平成11)年6月、丹波橋から数駅先の大学に通っていた、大学3回生のブログ主撮影。おそらく、帰りしなに途中下車して撮ったのでしょう(汗)
現在は京阪の駅の東側に、住宅街を介して近鉄の駅はありますが、相互乗り入れしていた頃、奈良電→近鉄が京阪の駅を共用していた名残。
つまり、現在の「近鉄丹波橋駅」は使用されていなかったのでした(留置線としては利用)。
ちなみに、丹波橋駅の京都方(近鉄は京都駅、京阪は三条駅方向)の配線はこのようになっていたようです(後年に一部変更)。
そこから現在は駐輪場となっている坂道を下ると、近鉄の本線に突き当ります。ここが連絡線の分岐・合流地点でした。☆↓より。安全を確認して踏切から撮影。
先ほどの航空写真を拡大したものですが、かつての線路跡に沿って建てられた、向きの揃った一戸建て住戸。
北側と南側に分かれているのですが、その間には古くからの道路をガードで乗り越していました。近鉄が高架線から、地平の京阪に合流するためです。
築堤はすっかり草生してはいましたが、遺構としては十二分に当時の面影を偲ばせるものでした。もっと撮っておけば良かったのですが。
近鉄と京阪の相互乗り入れは、半世紀以上前の1968(昭和43)年12月に取り止められたそうですが、なかなか興味深いものだったようです。出典①。
さらに次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「日本国有鉄道監修 交通公社時刻表 昭和34年7月号」)