「近鉄全線2日間フリーきっぷ」で巡る近鉄沿線道中記〜その52 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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みなさんこんにちは。前回からの続きです。

今年6月に限定で発売された「近鉄全線2日間フリーきっぷ」で巡った、近鉄沿線乗り鉄道中記をお送りしています。



昼前に大阪を出発した、旅の第2日目(2023年6月14日)。「近鉄生駒ケーブル」に乗り、路線の中間「宝山寺駅(ほうざんじえき、奈良県生駒市)」に到着。


レトロな駅構内を、探索しています。



この駅舎、雰囲気を保ちながら最近に改装されたのだとのこと。開業から100年余り経た、ケーブルカーに関する展示もなされています。

↑NHKの関西ローカルニュースでも取り上げられていました。2023(令和5)年2月23日放送。


おっ、この行先板は味わいがありますね。
「直行」というのも珍しいものですが、これはこの駅で乗り換える「山上線」で使用されていたもの。途中の2駅を通過して「生駒山上駅」までノンストップの便です。



これですね。以前、乗車した時のショットに偶然ありました。

「山上線」と、終点の「生駒山上遊園地」が開業70周年を迎えた年でした。1999(平成11)年7月、大学生のブログ主撮影。


あらためて「生駒ケーブル」の諸元を確認。
鳥居前〜宝山寺間(宝山寺線)0.9km
宝山寺〜生駒山上間(山上線)1.1km

1918年(大正7年) 8月29日
生駒鋼索鉄道が鳥居前駅 - 宝山寺駅間を開業(現在の宝山寺線、日本初のケーブルカー)。
1922年(大正11年)1月25日
大阪電気軌道が生駒鋼索鉄道を合併。
1929年(昭和4年)3月27日
山上線 宝山寺駅 - 生駒山上駅間が開業。出典①・②。

ということで「宝山寺線」から遅れること9年後に開業したのが「山上線」でした。

ただ「宝山寺線」は建設された当時、現在ではレジャー施設があり、大阪近郊の手軽な観光地となっている生駒山上へ観光客が登ることを目的にしたものではありませんでした。


ここ「宝山寺駅」で「宝山寺線」と「山上線」が直通運転せず、路線が分離していることこそが、その理由。
生駒ケーブルの歴史を語るに外せぬ、この経緯については、追って触れることにいたします。

ところで、ここ「宝山寺駅」でこのように構内を探索出来るのは、本数の少ない「山上線」列車への乗り換え時間がたっぷりとあるからです。ありがたいこと😆


駅舎外へ出てみます。出口はこちら一箇所だくですが、改札には駅員さんは居らず。わたしはフリーきっぷなので良いのですが、振り返るとなんとも、味のあるモダンな建築の駅舎です。



アール・デコ風というのでしょうか、コンクリ製の屋根には手の込んだ洋風装飾がなされています。おそらくは1929(昭和4)年に「山上線」が開業した時からのものでしょうが、造りからして、これは二階もあったのでしょうか。

さて「宝山寺線」と「山上線」ふたつに分離された形になっている「生駒ケーブル」。


日本初のケーブルカーとして、最初に開業したのは「鳥居前〜宝山寺間0.9km」、宝山寺までが先に開業したのはなぜか、と触れましたが、その理由の一端を見つけました。

正規の改札から外れて、仕切りだけが残る「臨時改札」。多数の乗客が押し寄せるがために設置されたものだという察しがつきます。


そう、この駅名になっている「宝山寺(生駒聖天)」という、江戸中期に開基された、商売繁盛にご利益あるこのお寺に参拝する人々を、ふもとの「生駒駅」から一手に運ぼうとするために建設されたのが「宝山寺線」なのでした。


それでは、その「宝山寺」については…
全国47都道府県をテーマにしたシリーズもの「各駅停車全国歴史散歩30 奈良県(青山茂著・ 河出書房新社刊・昭和59年5月発行)」から拾ってみることにします。


商売の神様・宝山寺
標高642メートルの生駒山中腹にある宝山寺は、昔から商売の神様として知られ、連日、参詣人の絶えることがない。


生駒駅前からケーブルカー宝山寺で降りると、参道の両側にずらり料理旅館が並んでいる。参道は石段で、両側には桜の並木が並んでいる。


宝山寺は"生駒聖天"の呼び名で親しまれ、本尊はこの世に生きている人々の願望を叶えてくれるという歓喜天(かんきてん、大聖歓喜天)。

もともとは役行者と弘法大師の修験場といわれ、弥勒菩薩の浄土と考えられたこの地に延宝6(1678)年、宝山律師(1629-1716、宝山湛海上人とも。伊勢出身の高僧)が寺を建て、宝山寺と呼ばれるようになった。


参道には鳥居が並び、登りつめると山門。
中に入ると線香の香りがたなびき、般若窟と呼ばれる大岩を背に本堂、聖天堂、多宝塔、絵馬堂。さらに奥の院には石仏がずらり(後略)。

宝山寺の縁起によると、最初にこの生駒の山に役行者が入ったとされるのは、古墳時代から大和政権が樹立されつつある、5世紀半ばのことだといいます。いまから1400年ほど前です。


俗世から離れた険しい山中で、さまざまな人々が修行の場としていた、というのですが、いまでも未整備の山林はあちこちにありますし、おおよそ、ここが大阪や奈良に近いところだと想像し得ない場所もあまたあります。

逆にいうと、自然豊かな山々がいまなお近くにあるということ。大阪側の地元民ですが、未開発で知らぬ場所もいまだたくさんの生駒山ゆえに、かつては「難所」でした。続きます。


大阪と奈良をさえぎる生駒山は難所であった。奈良時代、遣唐使や遣新羅使は平城京から、生駒山頂南2キロほどの鞍部を越えて難波津(なにわのつ)に向かった。

いわゆる暗峠(くらがりとうげ)が最短のコースで、明治初期までこの細い急坂を登り下りして往来したものである。グーグル地図より。


松尾芭蕉(1644-1694、江戸時代前期の俳諧師。伊賀国出身)も元禄7(1694)年9月9日、奈良から暗峠を越えて大阪へ旅した。出典③。

南御堂前(現在の真宗大谷派難波別院。大阪市中央区久太郎町)で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の辞世の句を詠んだのはその一ヶ月後だから、最後の旅ともなったところ。
「菊の香にくらがり登る節句かな」の句碑が(峠の)大阪側に建っている(後略)。


ちなみに、松尾芭蕉というと「奥の細道」が有名ですが、奈良からこのように難渋して生駒の山を越えて到着した大阪の地で、客死します。「奥の細道」踏破から5年後のことでしたが、これはあまり知られていない史実です。

「奥の細道」は江戸を発ち、東北から越後・北陸を美濃・大垣(岐阜県)まで総延長2400km余りを半年かけて巡った旅の創作でした。いまに伝わる数々の名句が生まれたことは言うまでもありません。余談でした。出典④。


しかし、津々浦々を旅した芭蕉も、この生駒の山も越えるのには難渋したのでしょうか。


行きしなは大阪から、少しずつ近づいて来る、さながら巨体が横たわっているような生駒の山を中腹まで登り、長いトンネルで奈良へ抜けて来ました。



電車に乗っていてさえもその急勾配はよくわかるものですから、これを歩いてとなると。

芭蕉のみならず、明治に入るまでの旅は、実に大変なものだったのだなとつくづく感じます。駅前から奈良盆地を望む。


ところで、先ほどの数々の展示の中に、大変気になるものを見つけました。

「大阪電気軌道沿線名所案内」。現在の近鉄の母体会社「大軌(だいき)」が発行したもの。


本題の「近鉄生駒ケーブル」と、有史以来の大阪・奈良間の難所「生駒山」をぶち抜いた「生駒トンネル」とは、切っては切れない関係があったのでした。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①近鉄ホームページ)
(出典②「フリー百科事典Wikipedia#近鉄生駒鋼索線」)
(出典③「新詳日本史図説」浜島書店編著発行 1991年11月)
(出典④「図説日本史通覧」帝国書院編集・発行 唐杉素彦編集協力 黒田日出男監修 2014年2月)