みなさんこんにちは。前回からの続きです。
今年5月で開業から100周年を迎えた「近鉄生駒線・旧東信貴鋼索線」。
大阪・奈良府県境を成し、古くから霊峰として崇められていた「信貴山(しぎさん)」へ向かった鉄道網にまつわる歴史に触れるべく、現地を巡った訪問記をお送りしています。
「信貴生駒電気鉄道」として鉄道線(現・近鉄生駒線)と鋼索線(1983年=昭和58年に廃止された近鉄東信貴鋼索線となる)を建設し、官営鉄道関西本線(現在のJR大和路線)・大阪電気軌道(大軌、近畿日本鉄道の直系母体会社)奈良線の沿線から信貴山朝護孫子寺への参詣客を運ぶことを目論んで1919年(大正8年)9月17日に創立され、1922年(大正11年)に鉄道線の一部区間と鋼索線を開業させた。グーグル地図より。
寅の張り子で有名「信貴山朝護孫子寺」にて。
その後、信貴生駒電気鉄道は資金調達がはかどらず経営難に陥ったため、1925年(大正14年)11月5日に当時三重県にあった電力会社である三重合同電気(後の合同電気)の傘下で新会社「信貴生駒電鉄」を創立し、信貴生駒電気鉄道は全財産を信貴生駒電鉄に譲渡して解散した。この新体制の下で、1926年(昭和元年)に生駒 - 王寺間を全通させている。
さらに京都方面より信貴山への参詣客を運ぶことを目論み、現在の京阪交野線に当たる区間の免許を収得していたものの資金不足から着工できなかった生駒電気鉄道を信貴生駒電鉄創立前の1924年(大正13年)7月1日に買収し、1929年(昭和4年)には私市 - 枚方東口(現・枚方市)間を開業させ、私市 - 生駒間を後に建設することにしていた。
同社では他に、王寺 - 五条間や交野 - 八幡間などの路線を建設する計画も立てていた。
なるほど…大阪方面からのみならず、枚方乗り換えで京都方面からの参拝客輸送をも目論んでとは、当時の信貴山参拝が、いかに絶大な人気を博していたかを窺い知るエピソードです。
前回も登場の路線図ですが、確かに生駒と「交野線」終着駅の「私市」とはさほど距離はありません。だいたい、直線距離で20km弱です。
しかし、別に免許を取得していた別会社のロケーションの活用方法もさることながら、これはうまい自社ネットワークへの組み込み方です。近鉄ホームページより。
だが昭和恐慌による乗客の減少と、大阪電気軌道及びその子会社の信貴山電鉄によって現在の信貴線・西信貴鋼索線などが開通し、大阪方面からの信貴山参拝客が主にこちらを利用するようになったことから苦境に陥り、私市 - 枚方東口間の経営を1931年(昭和6年)8月1日には京阪電気鉄道に委託し、自社は大阪電気軌道(大軌、だいき)の系列に入って存続を図ることにした。
「西信貴鋼索線」ふもとの「信貴山下駅(大阪府八尾市)」にて。こちらについては、また後日項で取り上げることにいたします。
述べられているのは、ライバル「大軌」系列により整備された「信貴線+西信貴鋼索線」の、大阪方面から信貴山へ至る「第二ルート」。
「大軌」は「近鉄奈良線・大阪線・橿原線」系統を建設した会社で、現在の近鉄電車の母体会社に相当するのですが、確かに、大阪方面からですと生駒まわりよりもこの方が距離も短く、便利です。近鉄ホームページより。さらに続きます。
1939年(昭和14年)に京阪が全額出資する新会社「交野電気鉄道」を設立し、同年5月1日、私市 - 枚方東口間を同社に譲渡している。
ここからは、京阪電車ファンのはしくれとしては知識としてありました。しかし、そのような出自があったとは、です。出典①。
「西田原本(奈良県磯城郡田原本町)」にて。
先日の記事でも触れましたが、さまざまな鉄道会社が合併を繰り返して今日の巨大な路線網となった近鉄。系譜を確認しますと実に複雑なのですが、これは実に興味深い経緯です。出典②。
それでは、前身の「信貴生駒電鉄」が京都方面からの参拝客輸送を目的に建設した「信貴生駒電鉄枚方線」、すなわち現在の「京阪電車交野線」を、実際に乗り鉄してみることにします。
王寺から、またも寄り道になりますが(苦笑)
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「阪急梅田駅と百貨店とお客様の101年」阪急百貨店うめだ本店内・阪急うめだギャラリー企画展 2021年開催のパネル展示より)
(出典②「カラーブックス日本の私鉄1 近鉄」廣田尚敬・鹿島雅美共著 保育社刊 昭和55年2月発行)