阪和電気鉄道 昭和初期の面影〜その109「和歌山駅周辺の鉄道網変遷を辿る」Vol.22 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

「和歌山駅」「和歌山市駅」が玄関口の役割を果たす、現在の和歌山市内中心部の鉄道網。


その歴史を掘り下げますと、さらに「紀和駅(きわえき)」や「中ノ島駅(なかのしまえき)」という駅もそれに関わるなど、深く複雑な経緯がありました。


 
その中のひとつ「中ノ島駅」こと「JR阪和線 紀伊中ノ島駅」で下車。


現在は「阪和線」のみが高架線に発着しているこの駅。ただ、1972(昭和47)年10月までは、
それに直交する形で「和歌山線」も地上に駅を設けていました。

 
 
駅の廃止のみならず、この区間の路線自体もルート変更によって放棄され、以来半世紀ほど。
しかしこのように、往年を偲ばせる痕跡があちこちに遺されています。
 
 
ではここで、この「和歌山線 紀伊中ノ島駅」が最期の時を迎えつつあった頃の様子を、時刻表から探ってみることにします。
出典は「国鉄監修 交通公社の時刻表」1967(昭和43)年10月号より。

 
表紙を飾るのは「世界初の寝台電車特急」こと「581系」。このダイヤ改正で「月光号」として「新大阪〜博多間」に登場しました。

 
この頃、長距離を走る夜行列車は専用の寝台客車が主体でした。
しかし、輸送力が逼迫して来た中で、夜行寝台専用ではなく、昼間でも運用が可能な設備を兼ね備えた、日本鉄道史上に残る名車でした。

 
夜行列車として使用する際には、三段寝台に。

 
日中に使用する際には、ベットを収納し、向かい合わせのクロスシート仕様に。

実にハイスペックなもので、以降、日中・夜間問わず、特急運用が出来る貴重な戦力として、東北から九州にかけての広い範囲で活躍をはじめた、という号です。余談でした。
 
 
本題に戻り「和歌山線」のページに移ります。
電化はされておらず、客車列車と並びディーゼルカーが幅を効かせて来ていた頃。そんな中… 
 
 
気になる列車を見つけました。
「王寺駅(奈良県葛城郡王寺町)8:48発、和歌山市駅11:44着」の525列車。客車を用いた普通列車です。

もちろん、この「紀伊中ノ島駅」にも発着(11:35)するものですが、これには「東京発2235 急行大和 2等寝台車 1両だけ和歌山市まで直通」という記載が。 
 
 
これを、さらに辿って行きます。 
  
 
 
「名古屋〜王寺」までは「関西本線」を経由。
王寺には8:38に到着し、1両だけが切り離しをされ、くだんの客車普通列車に併結の上で「和歌山線」へ10分後に発車。

列車本体は、大阪・ミナミの西外れ「湊町駅(みなとまちえき、現在のJR難波駅。大阪市浪速区)」へと「関西本線」を走破しています。
これを、さらに始発駅へと遡りますと…
 
 
前日の22:35、東京駅を発車する「急行大和」・「急行能登」という列車がそうでした。
 
 
途中の名古屋までは、金沢へ向かう「能登」と併結運転。
その後は「関西本線」を経由、奈良・大阪へ向かう「大和」となるのですが、そのうちの寝台車1両だけが「和歌山市ゆき」という、なんとも珍しい多層建て列車だったことがわかりました。
  
 
「東京ゆき」はその逆。
「和歌山市17:11発→紀伊中ノ島17:20発→王寺19:56着」…と来て、大阪・湊町からの「急行大和」に連結。 
 
 
名古屋で、金沢から北陸本線・東海道本線を経由して来た「急行能登」とさらに併結。 
 
 
東京駅には、翌朝の6時ちょうどに到着する、というものでした。 長い、長い旅です。
 
 
巻末から。この列車、東京〜名古屋間は14両編成という、長大な列車だったようです。
新幹線が開業して数年、鉄道輸送がまさに全盛期を迎えていた頃の、華々しい姿です。


名古屋で切り離しされる「大和」編成は6両。

そのうちの1両が、長駆、和歌山までやって来ていたということになるのですが、王寺からは普通列車に併結されるとは、寝台普通列車ということになりましょうか。果たして、どのような車中だったのか、大変気になります。

 
先ほども少し触れましたが、この頃にはすでに「東海道新幹線」は開業しています。

ただし、大多数の旅客には、乗り換えが不要で、全国各地に直通していた在来線の夜行列車に大きなニーズがありました。

「わざわざ1両だけ切り離して和歌山市直通」というこの列車も、おそらくは、そういった背景から設定されていたものだと思われます。

 
さらに現在は、全線を走破する優等列車がまったく存在しない「関西本線」も、メインルートの「東海道本線」を補佐する、重要な役割を果たしていました。

 
ですが、その数年後には、和歌山市直通運転も廃止。さらに本体の「急行大和」や、関西本線を走破する急行自体も姿を消してしまいます。

全国的にも、昭和40年代半ばという時期以降には、特急にシフトした輸送形態へと徐々に切り替わって行くとともに、航空機や自動車などとの競合が激しくなり、徐々に鉄道の優位が切り崩されて行くことになってしまいます。

 
列車が通らなくなって半世紀ほどの、古びた駅ホームやガード跡。

 

かつてはここから毎日、東京へと直通する列車が発着していた事実というのは、実に感慨深い歴史です。



時代と、その当時に繰り広げられた史実というのは、少し探ってみるだけでも、さまざまなことが潜んでいるものだとも、さらに感慨に耽ってしまいます。

 

次回に続きます。

今日はこんなところです。