阪和電気鉄道 昭和初期の面影〜その107「和歌山駅周辺の鉄道網変遷を辿る」Vol.20 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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みなさんこんにちは。前回からの続きです。

「和歌山駅」「和歌山市駅」が現在玄関口としての役割を果たす、市内中心部の交通拠点。



その歴史を掘り下げますと、さらに「紀和駅(きわえき)」「中ノ島駅(なかのしまえき)」という駅もそれに関わるなど、深く複雑な経緯がありました。出典①。

本題の「阪和電気鉄道」こと現在の「JR阪和線」のそれを中心に、現在までのそれら変遷を実際に辿ってみようということをしています。


冒頭で名前を挙げた「中ノ島駅」こと「JR阪和線 紀伊中ノ島駅」で下車、構内をあちこち探索しているところです。


ところで、前回の記事でも触れました、この駅の1階にある駅舎を入ったまん前に、おもむろに存在する階段と、通路然とした痕跡。



柵があったり、また草生してはいますが、高さや造りからすると、間違いなくこれはプラットホームです。


これを道路側から、奥は阪和線のガード。


駅舎の西側は駐輪場になっていて、そこへのアプローチ部分には、ホーム跡から真新しいコンクリートが積み増しされています。



これを、さらに西方向へ。
団地街の広場にかかるあたりまで、ホーム跡は続いています。
見た感じ、3〜4両編成分はありましょうか。


辿って来た跡地を、阪和線の車中より俯瞰。
手前左側にプラットホームと線路跡、その隣にいまは無人の駅舎。


そういったことで、これはかつて1階部分で、阪和線と交差していた別路線のホームの痕跡だとわかりました。


グーグル地図より。この「紀伊中ノ島駅」付近を見てみるのですが、ピンク地で示されている
駅構内の下(南側)には建物のない、不自然な空間が広がっているのですが…


同じアングルから航空写真で見ると、その様子が良くわかります。このような用件には、すこぶる便利なものだと感心しますが(笑)


拡大しますとが線路跡、がホーム跡。このような配置になるでしょうか。
画面右側(東側)で、阪和線はこれを鉄橋でオーバークロスしていました。


先ほどこの駅へ下車した時に、阪和線の高架ホームから見えたこれがそうでした。

では、ここからは…毎度おなじみ「フリー百科事典 Wikipedia#紀伊中ノ島駅」から。一部加筆修正しています。


大阪と和歌山を高速に結ぶことを目的として建設された阪和電気鉄道の中間駅として1932年(昭和7年)1月1日に開業した(開業から1936年までは阪和中之島駅)。出典②。


当初から築堤上にある駅で、この駅のすぐそばで既存の鉄道省(国有鉄道)和歌山線の線路を乗り越えていた。

この当時、国鉄和歌山線は東側の田井ノ瀬駅からまっすぐ西へ向かい和歌山駅(現在の紀和駅)へと通じていた(地図中、赤い横線)。


その後、双方の連絡を行うために1935年(昭和10年)1月1日に両者の交点付近に国鉄が紀伊中ノ島駅を開業させ、同時に阪和電気鉄道の駅は102 m南の交点付近へ移転した。



この時に国鉄が建設した駅舎が現存する駅舎で、またこの時に阪和電気鉄道が建設したホームが現存するホームである。

国鉄・阪和電気鉄道がそれぞれ駅舎を設けていたが、1936年(昭和11年)9月25日に阪和電気鉄道の駅名を国鉄に合わせて紀伊中ノ島と改称するとともに、阪和電気鉄道側の駅舎は撤去され、駅を共同使用するようになった。

その後阪和電気鉄道は南海鉄道を経て国鉄に買収され、国鉄阪和線となり阪和線と和歌山線の乗換駅となった。


和歌山線との乗換駅となった当初は和歌山線側が短距離運用のガソリンカーのみ停車としたため、阪和電気鉄道側もガソリンカーに連絡する特急・急行のみ停車していた(特急は超特急のうち当駅停車列車を改称したもの。上り2本、下り1本)。



同年11月の改正で和歌山線の通過列車が和歌山市行き最終1本のみとなると阪和側の停車本数も増加し、1937年6月の改正で全ての特急・急行が停車するようになった。出典②・③。


昭和初期の「阪和電鉄案内」より。
鉄道省(→国鉄→JR)によって、和歌山を起点とし、紀伊半島を巡る「紀勢線」の延伸が少しずつ進んではいたものの、現在の「JR和歌山駅」はまだまだ発展途上で「初代和歌山駅(現在のJR紀和駅)」と「和歌山市駅」が玄関口の役割を担っていた頃のものです。

そのような事情で、奈良方面から紀の川沿いにやって来る「和歌山線」も「東和歌山駅(現在のJR和歌山駅)」ではなく、市内中心部へは、それら両駅へのアクセスを重視していました。


この頃「和歌山線」はその沿線に収まらず、奈良方面だけでなく、京都方面や、関西線を経由して三重・名古屋方面からも直通列車が運転される、重要な交通手段となっていました。

それ故、紀伊半島へ路線網を延ばす「紀勢線」や、大阪方面へ短絡する「阪和電気鉄道」との連絡は重要なものとなりつつあったので、それらが交わるこの駅は、和歌山第4の拠点ターミナルとなりました。では、続きます。



…阪和電気鉄道が乗りいれた東和歌山駅(現在の和歌山駅)が昭和30年代以降、重要な拠点になるにつれて、和歌山線の田井ノ瀬駅から東和歌山駅へ乗り入れる線路(当時は貨物支線として設定)が1961年(昭和36年)に完成し、1968年(昭和43年)には従来の和歌山駅を紀和駅へ、従来の東和歌山駅を和歌山駅へ改称した。出典④。

この貨物支線経由の旅客列車は当初、準急列車だけであったが、やがて普通列車にもこちらを経由する列車が設定されるようになった。



1972年(昭和47年)3月15日のダイヤ改正で和歌山線の定期列車がすべて和歌山駅へ直通するようになると、田井ノ瀬から当駅を経由して紀和へ向かう元来の和歌山線は支線へ転落、1974年(昭和49年)9月30日限りで廃止となった。

これにより、当駅は阪和線単独の中間駅となり乗換駅としての機能を失った(後略)…


この駅が阪和線と紀勢本線、和歌山線の拠点であった時期というのは、30年ほどのことで終焉を迎えてしまいました。

ではいま少し、廃線から50年近く経った現在も遺された、多数の乗降客が行き交ったであろう、往年の面影を探ってみることにします。


次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「各駅停車全国歴史散歩31和歌山県」梅田恵以子・高坂次郎・古川成美著 河出書房新社刊 昭和55年4月初版 絶版 P62-63)
(出典②「阪和電気鉄道史」竹田辰男著・鉄道図書研究会刊 1989年)
(出典③「阪和電鉄 沿線御案内」阪和電気鉄道発行 昭和13年)
(出典④「国鉄監修 交通公社の時刻表」1968年10月号)