みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「和歌山駅」と「和歌山市駅」が玄関口としての役割を果たす、市内中心部の交通拠点。
その歴史を掘り下げますと、さらに「紀和駅」や「中ノ島駅」という駅もそれに関わるなど、深く複雑な経緯があります。
本題の「阪和電気鉄道」こと現在の「JR阪和線」のそれを中心に、現在までの変遷を実際に辿ってみようということをしています。
グーグル地図より。
「南海電車」がターミナルとしている「和歌山市駅」からJRに乗り、2つ先の「和歌山駅」へ向かっています。2両編成のワンマン列車、両駅間の所要時間は、わずか5分ほどです。
唯一の中間駅「紀和駅(きわえき)」が見えて来ました。「紀勢本線」の一駅ですが、発着する列車は「和歌山市〜和歌山」を往復するもののみ、接続する路線もない小さな駅です。
ただし、開業当時は「(初代)和歌山駅」を名乗る、和歌山市内中心部へ鉄道が乗り入れるに当たって、重要な存在だったといいます。
では、毎度おなじみ「フリー百科事典Wikipedia #紀和駅」から、解説と画像で拾ってみます(一部加筆修正しています)。
明治から大正期にかけての「初代和歌山駅(紀和駅)」。
1898年(明治31年)、当駅と船戸仮駅(ふなとかりえき、和歌山県岩出市。現在のJR和歌山線船戸駅)との間に開通した紀和鉄道の和歌山駅として開業。
「紀和駅」は地図内中央、右側(東側)から直線でやって来る「紀和鉄道(現在のJR和歌山線)」の「初代和歌山駅」として開業。
「和歌山線」は現在「阪和線」と合流する手前で南に折れ「和歌山駅」を発着している。
当時はそのまま下側(西方向)へ直進して「中ノ島駅」を経由、「紀和駅」に至っていた。
案内図は「紀和〜和歌山市間」が延伸された後のもの。出典①。
では、続きます。
しかし、開業からわずか5年後の1903年(明治36年)3月には、大阪市と直結する南海鉄道(現在の南海本線)が和歌山市内中心部へ南伸するとともに、紀和鉄道も当駅から西伸して和歌山市駅が開業し、地域における当駅の重要性は早くも低下した。
1904年(明治37年)8月に紀和鉄道は関西鉄道に買収され、更に1907年(明治40年)10月には同社が国有化されたことで、初代和歌山駅は国鉄の駅となった。
1924年(大正13年)2月28日、紀勢西線(現在のJR紀勢本線)が初代和歌山駅(現在の紀和駅)から箕島駅まで開通し、和歌山線と紀勢西線の分岐駅となった。出典②。
この時、開業したのが「東和歌山駅(現在の和歌山駅)」。
街から東に外れたところに設置され、その後しばらくは閑散としていたそうですが…出典③。
しかし、紀勢西線への直通運行のしやすさを重視した阪和電気鉄道が初代和歌山駅(紀和駅)ではなく東和歌山駅(現在の和歌山駅)との接続を選択し、1930年(昭和5年)6月16日に阪和東和歌山駅を開業させると、当駅の重要性はさらに低下した。出典②。
そして阪和電気鉄道が南海鉄道山手線を経て1944年(昭和19年)11月に国有化されると、大阪 - 南紀ルートから外れた当駅に代わり、国鉄における和歌山のターミナル駅の座は完全に東和歌山駅へ移ることとなった。出典④。
終戦直後の「初代和歌山駅」。1946(昭和21)年撮影。
第二次世界大戦後、和歌山の中心駅としての地位を完全に失った当駅は、その駅名もまた東和歌山駅に譲ることとなり、1968年(昭和43年)2月1日、紀和駅に改称された(同年3月1日に東和歌山駅が和歌山駅に改称)。
ということで、路線網の拡充とともにターミナル駅の地位を早々に追われてしまった、いわば「悲運の駅」のようにも感じます。
それでは、もう少しこの駅について掘り下げてみます。
(出典①「沿線御案内」阪和電気鉄道発行 昭和8年)
(出典②「阪和電気鉄道 沿線御案内」阪和電気鉄道発行 昭和8年)
(出典③「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」大阪府立弥生文化博物館 令和2年度冬季企画展より)
(出典④「国鉄監修 交通公社の時刻表」昭和54年3月号)
次回に続きます。
今日はこんなところです。