阪和電気鉄道 昭和初期の面影〜その74「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」展 Vol.31 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

 

 
府南部、和泉市(いずみし)の「弥生文化博物館」で、今年3月まで開催されていた「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」という特別展の訪問記をお送りしています。
 
 
現在の「JR西日本 阪和線」を昭和初期に建設、開業させた「阪和電気鉄道」。
大阪方のターミナルは、市南部の交通拠点「阪和天王寺駅(現在のJR天王寺駅、大阪市天王寺区)」。 
 
 
そして、和歌山方のそれは「阪和東和歌山駅(現在のJR和歌山駅)」。 
両ターミナルともに、市電やバス、私鉄路線が乗り入れる至便な場所に設けられていました。
 
 
この大阪・和歌山間では当時比類ないほどの高性能電車が投入され、最速達の「超特急」がこの両ターミナル間を、45分という日本最速の猛スピードで結んでいました。

ただし、そのような超高速運転を行うため、阪和は極力の直線ルートを求めたがゆえに、市街地から離れた、当時は人口希薄な地に線路を敷設することとなりました。
  
  
そういったことで路線後は、沿線開発と、豊かな自然を活かした数々の遊戯、遊覧施設の類の開設が並行して盛んに行われるに至ります。

ここからは、その阪和が行った沿線開発と、魅力あるさまざまな集客のための取り組みについて、展示から拾ってみることにします。
 
 
ここで注目されるのは、大阪・和歌山間を直通する旅客の獲得だけに注目したのではなく、まだ開発が進んでいなかった沿線に対し、いちからの街づくりをしたということでしょうか。
 

解説にもありますが「鉄道路線を敷設し沿線に住宅地を開発。その居住者になって貰い、都心部への通勤・通学で自社路線ユーザーを増やす」という手法は、現在の阪急電車の前身「箕面有馬電気軌道」、その創始者・小林一三翁(こばやし・いちぞう、1873-1957)が考案、はじめた手法でした。天神橋筋六丁目にて。
 

 

昭和初期に興った阪和もこれに倣い、沿線の「上野芝駅(うえのしばえき、堺市西区)」や「泉ヶ丘停留所(現在の東佐野駅、大阪府泉佐野市)」などで一帯の大開発を行いました。 
  
 
ここでは、阪和が手掛けた最大の住宅開発地であった「上野芝」についての、詳しい資料が展示されていました。
展示の広報誌「阪和ニュース」記事から、1933(昭和8)年頃のものと思われます。 
 
 
 
計画図を見ますと、整然と区画整理された街並みに、小学校や幼稚園、集会所や、果ては村役場までが納まっています。 
90年近く前のものですが、今日、我々が住むコミュニティそのものだということに驚きます。
 
 
さて、気になるお値段ですが…
「上野芝向ケ丘」では、特等地25円
「霞ヶ丘」では、同じく19円(坪単価)

ここで、このチラシが発行された1933(昭和8)年頃と、2021(令和3)年の物価について、
「鉄道の初乗り運賃」で比較すると「5銭:130円」「100銭=1円」ですから、これを単純に計算して現在の貨幣価値に換算すると「1円=約2,600円」
つまり「約65,000円」「約49,400円」でしょうか。なんと激安!出典②。


実際の詳細な築面積はわかりませんが、天王寺から10数分で到達出来るという便利な上野芝界隈、さらに駅チカの土地とならば、このような坪単価なら絶対に買いですよ!って、興奮して個人的な意見がダダ漏れです(苦笑)出典①。

さらに、景品つき(ただし商品券)というのにも目が行きます。空くじなし1等当選金はなんと150円(約390,000円)。
4等でも50円(約130,000円)を24名と、とにかく羽振りの良さにビックリします。
ちょっといいテレビでも買えそうやん…と、この時代にはテレビなぞありませんでした(笑)
 

さらにそれにとどまらず、阪和が取り扱う住宅地を購入すると「一年間の全線無料乗車券」が特典としてついて来るという、たいそう太っ腹なこともしていたようです。出典同。

ただ、沿線に居住して貰うことで、子や孫の世代まで自社路線を何十年も利用することになる…というと、鉄道会社&デベロッパーとしては安い投資だったのかも知れません。

しかし、そのようなものを手にしたら、わたしなどでしたらさぞかし沿線各地へ乗りまくっていたでしょうに(笑)
まあ、そうして沿線のレジャー施設等に足を運ばせることも、狙いだったのかも知れません。

 
時代背景を勘案してみますと、大正から昭和の初めにかけて、我が国では「サラリーマン」という概念が徐々に浸透して行ったと言われていることを思い出しました。

それに付随して、それまでの「職住近接」ではなく、郊外に一軒家を構えて、当時最新のサービスだった「電車通勤」をするということが、ある種の憧れになりつつあったようです。


ところで、くだんの「上野芝駅」周辺の地図を眺めていますと…駅の北側に、なにやら大きなお濠のようなものがあります。

 
拡大しますと!なんと、実はこのあたりは古墳の大集積地なのでした。 
あの有名な「大仙古墳(仁徳天皇陵)」はじめ大小さまざまな古墳群が、このカットには収まらないほど点在しています。

2019(令和元)年7月、ユネスコの世界遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)」の一部がまさにこれに当たるもので、大変歴史の深いところです。
 
 
ところで、阪和が開発した住宅地のひとつとして、この「上野芝」以外に名前が上がるのは「泉ヶ丘」というところです。

最寄りは「泉ヶ丘停車場(後に駅へ格上げ)」。現在は「東佐野駅(大阪府泉佐野市)」と改称されているのですが…

 
おおよそ、旧国鉄やJRの駅舎とは思えないほどの瀟洒な雰囲気です。

「泉ヶ丘」は「上野芝」とは異なり、阪和の子会社が高級住宅地としてが手掛けた一帯でもあったので、このような垢抜けたデザインを駅舎にも採り入れたのでしょうか。 

 
もちろん、駅の開業当時(1939年)から現存している、貴重な建物です。
数年前、この駅を訪問したのですが、ホームから見かけた瞬間、大好きになりました(^o^)

こういった独特なデザインの遺産と、その歴史を紐解いて行くと、阪和線というのには、やはり私鉄の血が流れているのだなと感じます。
  
 
その動きに合わせて、電鉄直営「阪和バス」の運行も開始されました。
 
 
沿線の開発が急ピッチで進むに連れ、現在の堺市域からはじまり、和泉、岸和田、泉南方面や和歌山県内へも路線を拡大するなどし、こちらの事業も軌道に乗るという、良い相乗効果があったようです。かわいらしい小型のバスです。 

 

ところで、冒頭でも触れましたが、沿線人口の拡大を狙うとともに、和泉山地に近い、沿線の豊かな自然を活かしたさまざまなレジャー開発をも、阪和は積極的に行って行きました。


(出典①「阪和電気鉄道 沿線御案内」昭和10年 阪和電気鉄道発行)

(出典②「明治〜令和 価格史」https://coin-walk.site/J077.htm)

 

次回に続きます。

今日はこんなところです。