みなさんこんにちは。
府南部、和泉市(いずみし)の「弥生文化博物館」で、今年3月まで開催されていた「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」という、特別展を訪問した際の様子をお送りしています。
現在では「特急くろしお号」が結んでいることで知られる「阪和電気鉄道(現在のJR阪和線)〜省線紀勢西線(現在のJR紀勢本線)」との直通列車運転について、その黎明期の様子を探っています。

阪和が独占していた「大阪〜南紀白浜間」の「直通快速列車黒潮号」の運転。
満を持して、ライバルの南海も昭和9(1934)年、これに加わりました。

当時発行の、阪和・南海両社による、直通列車を掲載した「省線紀勢西線」時刻表。
これを詳しく見て行きますと、
阪和は「阪和天王寺 午後2時30分発→東和歌山 午後3時15分着・同20分頃発→白浜口 午後5時29分着」、所要時間は2時間59分。
対する南海は「南海難波 午後2時10分発→和歌山市 午後3時05分頃着・同10分頃発→東和歌山 同15分着・同20分頃発→白浜口 午後5時29分着」、所要時間は3時間19分。

「東和歌山駅(現在のJR和歌山駅)」から「紀勢西線」へ向かう列車では、両社の客車は併結されていましたので、和歌山以南の所要時間はまったくのイーブンです。
しかし、大阪〜和歌山間の所要時間では、両社で20分もの差がついてしまっている、というところまで、前回の記事では触れました。
今日は、異なるルートで和歌山までやって来た阪和・南海それぞれの直通列車が「紀勢西線」に乗り入れるまでの段取りと、所要時間に差が生じた理由について探ってみたいと思います。
まず一つ目。
阪和は開業以来、和歌山方では「東和歌山駅」
をターミナルとしていました。
この駅は現在の「JR和歌山駅」に当たりますが、阪和の東和歌山開業(昭和5年)当時から省線紀勢西線との直通列車運転を考慮して、駅は省線と同一の構内に設けられました。
それが功奏し、直通列車に用いられていた客車を切り離し・付け替えする作業だけで、そのまま大阪、白浜方面に進むことが出来ました。出典①。
さらに「阪和天王寺〜阪和東和歌山間」での直通列車は、現在と同水準の、45分ノンストップ運転で爆走する「超特急」に連結が出来たことも、所要時間の短縮に大きく寄与しています。
展示より。
ニつ目です。
明治期に開業した南海は、大阪湾に近い「旧紀州街道」のルートに沿って、主要な街々を結節する形で路線が敷設されました(↓)。
対しての阪和は、古くからの市街地を無視する形で、山側の人口希薄地に、高速運転が可能なように極力、直線のルートを採用します。
さらに南海は、大阪・和歌山の府県境を越えるルートに、勾配が比較的緩い「孝子峠(きょうしとうげ)」へ迂回した線形が採られました。
都合、スピードアップが図られつつあったものの、最新型車両を投入した最速の「特急」でも、大阪難波〜和歌山市間の所要時間は1時間を切るのがやっとでした。出典②。
これに加えて、南海が和歌山のターミナルとして設置した「和歌山市駅」の立地や配線も関係しています。順序を挙げますと、
大阪方面からやって来た南紀直通列車が「和歌山市駅」に到着。
大阪から牽引されていた電車から切り離し。
↓
蒸気機関車に付け替えられ、スイッチバック(列車の進行方向が変わること)を経て「省線紀勢西線」へと入線。
5分ほどで二駅目の「東和歌山駅」に到着。
↓
「和歌山市駅」からの機関車を切り離し。
阪和からやって来た直通列車と連結作業を行い南紀白浜方面へと出発…
という、大変手間のかかる段取りが、南海経由の直通列車には必要でした。
そういった事情はあったものの、所要時間がかかる南海直通列車でも、古くから拓けた沿線の街々を経由すること、また、道頓堀や新世界に近い、大阪随一の繁華街「難波(ミナミ)」に直結していることのアドバンテージは大きかったようで、直通列車の利用は、ニーズによって阪和か南海にするかと、うまく棲み分けがなされていたようです。以上、出典③。
ただし、大人気を博したこの「直通快速列車黒潮号」ですが…
1937年(昭和12年)
12月1日:阪和・南海からの「黒潮号」を廃止。しかし、阪和からの直通運転自体は継続。
に至ります。
この昭和12年は、日本が先の大戦に足を踏み入れつつあった年でもありました。
7月には、北京郊外で「盧溝橋事件」が勃発。
いわゆる「日中戦争」がはじまりました。
さらに、11月には「日独伊防共協定」が成立。
「枢軸国」と呼ばれる陣営が構築されました。
日本は、ヒトラー率いるナチスドイツ、ムッソリーニのイタリアと同盟関係を樹立、以来、アメリカ・イギリスなど、連合国との対立が際立って来ます(写真は、2年後の昭和15年、これをさらに強化した「日独伊三国同盟」締結)。
時局が戦争に向かいつつある中、温泉地に向かうレジャー目的だったこの列車は贅沢で不要不急とされたことが、廃止の大きな要因でした。
運転開始から4年あまり、大人気を博していたにも関わらず廃止に追い込まれたのは、そのような状況に圧されてのことでした。余談でした。以上、出典④。
結局、南海経由の南紀直通列車については、
1951年(昭和26年)
4月6日:国鉄紀勢西線との直通運転再開
まで待たねばなりませんでした。以上、出典③。
翌27年には、南海自前の客車を準備するなど、
ようやくにして復活の兆しが見えて来ました。ただ、乗り入れ先は「省線」から「国鉄」に、激しく競合していた「阪和電気鉄道」はすでに消滅、「国鉄阪和線」となっていました。
そのあたりの経緯についてはまた後日項にて。
(出典①「阪和電鉄 沿線御案内」阪和電気鉄道 昭和5年発行)
(出典②「阪和電鉄 沿線御案内」阪和電気鉄道 昭和11年発行)
(出典③「週刊朝日百科 週刊歴史でめぐる鉄道全路線 大手私鉄16 南海電気鉄道」朝日新聞出版刊 平成22年発行)
(出典④「新詳日本史図説」浜島書店編・著 1991年3月発行)
(年表出典「フリー百科事典ウィキペディア」#南海本線 ならびに#紀勢本線)
次回に続きます。
今日はこんなところです。