みなさんこんにちは。前回からの続きです。


府南部、和泉市(いずみし)の「弥生文化博物館」で、今年3月まで開催されていた「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」という、特別展を訪問した際の様子をお送りしています。



現在の「JR阪和線」の前身、「阪和電気鉄道」がその最大の目標とした、大阪・和歌山間の超高速運転について、取り上げています。

1933(昭和8)年4月のダイヤ改正で、この区間を最速48分での運行を開始することとなりましたが、ここからは、毎度おなじみ「Wikipedia#阪和電気鉄道」の項から、その様子を拾ってみることにいたします。


ノンストップ超特急編集

和歌山までの開業当初は、阪和天王寺 - 阪和東和歌山間の61.2kmを「急行」(途中鳳駅にのみ停車)が65分、「直通」(普通列車のうち阪和天王寺 - 阪和東和歌山の全区間を走行する列車)が80分で結んでいたが、同年10月のダイヤ改正で急行55分、直通75分に短縮するなど、スピードアップを積極的に行った。

その後も路盤の安定に伴ってスピードアップをくり返し、1931年7月に阪和天王寺 - 阪和東和歌山間をノンストップ48分で走破する「特急」の運転を開始した。

というところまでを、前回まで触れて参りました。ただ、阪和のスピードアップの取り組みはそれで終わりではありませんで、さらに…

この特急は、1933年12月20日改正で阪和天王寺 - 阪和東和歌山間45分運転へスピードアップされ、種別を「超特急」に改める。

いよいよ、阪和の伝説的な「超高速運転」がその最高潮を迎えます。我が国の鉄道史上で空前絶後といえる「昭和初期における大阪・和歌山間60km余りのノンストップ45分運転」がはじまりました。



ところで現在、その「超特急」の後進に当たる阪和線の最速列車というと、この「特急くろしお」が該当します。京都・大阪から南紀方面を結ぶ、重要な交通手段です。新大阪にて。

では現在、この「くろしお」は大阪・和歌山間をどのくらいのスピードで結んでいるのか…

大阪→和歌山方面のもの。

今春のダイヤ改正から「くろしお」は「日根野駅(ひねのえき、大阪府泉佐野市)」に全列車が停車するようになりました。
関西空港へのアクセスを考慮したもので、阪和間はノンストップではなくなりましたが、最速では「くろしお3号」が休日ダイヤの場合では「42分」(天王寺 09:23→和歌山 10:05)。


逆の、和歌山→大阪方面。
こちらも日根野停車ですが、和歌山・天王寺間は最速「43分」。出典①。


繰り返しになりますが、1933(昭和8)年12月に阪和が成し遂げたのは「大阪・和歌山間ノンストップ45分運転」

昔といまとは鉄道車両の性能は比べ物にならないほど向上していますし、設備も格段に高性能になっていることは、容易に想像がつきますから、現在と遜色ない高速運転をすでに戦前の、それも約90年も前に、日常的に行っていたとことが、いかにすごいものだったのか、ということがよくわかります。出典②。



その阪和が、広報誌として発行していた「阪和ニュース」に、その特集がなされていました。
大阪(天王寺)ー和歌山(東和歌山)間、61.2kmを時速(表定速度)81.60km/h。
これに伍しているのは「京阪電車新京阪線(現在の阪急京都線)天六ー京都間」74.91km/h、また、大阪・東京周辺の、省線電化区間を走る電車くらいでしょうか。

注目されるのは、その隣に記載された、省線(→国鉄→JR)の「特急 燕・櫻・富士」は、当時の日本では最高のエリート列車として知られているものですが、表定速度は60km/h台。


ちなみに「表定速度」とは「最高速度」とは異なり、駅に停車する時間も含め、その区間で要した運転時間すべてをひっくるめたものを指します。
つまり、途中停車駅が多いと、それだけ表定速度は下がってしまうので、阪和のような途中停車がないノンストップ運転ですと、それはそれは高い値へ跳ね上がります。

とはいえど、

この時の表定速度81.6km/hは、営業運転される定期列車としては1950年代以前の日本国内最高記録で、戦後に国鉄特急「こだま」号が東京 - 大阪間6時間40分運転(表定速度83.46km/h)を開始した1959年まで、実に26年間も破られない超絶的レコードとなった。出典③。



同時期、日本資本で経営されていた南満州鉄道の著名な特急列車「あじあ」号(1934年運転開始)は蒸気機関車牽引の客車列車ではあるものの、標準軌路線での運転で表定速度82.5km/hであったが、阪和超特急は狭軌線(起動幅が1,067mm、現在のJR在来線規格)ながらそれにも匹敵する水準に達していた。出典④。

補足ですが、鉄道は一般的に「軌道幅が広ければ広いほど、安全性の担保された高速度を出すことが出来る」とされており、狭軌幅より広い1,435mmの標準軌を採用した、新幹線がその好例だといえます。

さらに、項を進めます。



阪和・南海の、大阪・和歌山府県境の様子。
「距離が長いが、山岳地帯を迂回して海側に沿う南海(青↑)」に対して「距離は短いが、山岳地帯の最も急な地点を長大トンネルで貫く阪和」との違いがわかる。
府県境で南海は「孝子峠(きょうしとうげ)」、阪和は「雄ノ山峠(おのやまとうげ)」を経由。出典②。

阪和電鉄の線路条件はおおむね直線で良好であったが、県境の山中渓駅付近には急曲線・急勾配区間があり、振り子式車両(車体傾斜式車両。カーブ区間に差し掛かると、車両と台車の間に取り付けられた振り子装置が作動し、車体を傾けることで、カーブ区間を可能な限り減速せず通過出来るもの)のない当時としては、平坦区間で極限の高速運転がなされた。出典②。





阪和間45分運転を行うことは電車にも大きな負担をかけ、駆動歯車は鋸歯状になるほど消耗したという。


さらに、驚愕のエピソードは続きます。

速度違反
阪和電鉄の認可最高速度は当時の国鉄同様95km/hだったが、現実にはしばしば120km/h - 130km/hにも達する速度違反が行われていたともいう。もっとも、監督官庁が鉄道省であった当時、仮に省線以上の速度で申請を出しても認可は得られなかった。


当時の阪和では乗客へのサービスのため、阪和天王寺駅では発車時刻になっても改札に客がいる場合には発車を待たせ、遅れた客を乗せたうえで発車させていたが、それでも定刻に阪和東和歌山駅に到着させることが厳命され、乗務員は実際に回復運転(列車の遅延を取り戻し定刻のダイヤにするため、主に高速度での運転を行う処置)を図って定時到着させていた。




これは高規格な軌道と、大出力電車の高性能に負うものであり、安全上での一応の余裕はあったが、恐るべき「暴走」ぶりであった。

また1935年頃の同社の営業案内には「最高時速は120粁(キロメートル)で日本一の快速電車である」と記されている。




古い時代の鉄道では営業運転での最高速度でなく、実際に達することのない設計・計画最高速度をPRに使う、誇大広告のケースがまま見られた。

例えば、南満州鉄道の「あじあ」号について時折語られる「160km/h」という最高速度も、実際の営業運転では到達しておらず「130km/h」が最高であったが、阪和では一見額面のみの「最高速度」を表示しつつ、実際にもそれだけの超過速力を出していたもので、阪和の徹底したスピード主義を読み取ることができる(中略)。


阪和電鉄の手本となった新京阪線(京阪電車が阪和同様に創立に関わった、昭和初期に開業以来、超高速運転を行っていた路線。現在の阪急京都線)でも、途中の速度制限などから逆算すると法規を守っていればあり得ない所要時分の超特急を運行するなど、是非は別として、阪和だけが違反に手を染めていた訳ではなかったのが当時の実情であった。出典⑤。

ということで、現在では想像もつかない、壮絶な高速度運転を、それもいまから90年近く前に行っていたということには、驚くばかりです。


阪和のみならず、各社のスピード違反は、もう時効でしょうからともかくとして(笑)
ただこれを以てしてが、阪和が「伝説の鉄道」と呼ばれるゆえんでしょうし、既存の南海との競合関係を、圧倒的優位にさせる秘策であったとともに、東和歌山で接続する「鉄道省紀勢西線(現在のJR紀勢本線)」との大阪・南紀直通運転計画を、有利に進める算段もありました。

(出典①「JTB時刻表 2021年3月号」JTBパブリッシング発行)
(出典②「阪和電鉄 路線御案内」阪和電気鉄道株式会社発行 昭和10年または11年)
(出典③「新詳日本史図説」浜島書店編著・発行 1991年11月)
(出典④「満洲朝鮮復刻時刻表 附台湾・樺太復刻時刻表」日本鉄道旅行地図帳編集部編・新潮社刊 2009年11月発行)
(出典⑤「京阪百年のあゆみ」京阪電気鉄道株式会社編・刊 2010年)

次回に続きます。
今日はこんなところです。