みなさんこんにちは。前回からの続きです。


しばらく間が開きましたが、府南部、和泉市(いずみし)の「弥生文化博物館」で3月末まで開催されていた「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」という、特別展を訪問した際の様子をお送りするシリーズ、その続編を今日からはお送りいたします。



大阪と和歌山、また関西空港や「紀勢本線(きせいほんせん)」と直通し、関西の大動脈となっている「JR阪和線」。
その前身の、昭和初期に開業した「阪和電気鉄道」は、当時としては破格の高規格で建設された、超高速運転を誇るエリート私鉄でした。


先の大戦に向かう、激動の時代に飲み込まれ、わずか10年あまりで消滅した「伝説の鉄道」と呼ばれるその歴史について、展示を拝見しながらあれこれとたどっています。天王寺にて。


さて、展示は「第2章 阪和電鉄の軌跡」へと移ります。



先輩格に当たる「南海鉄道(現在の南海電鉄)」が早くも明治30年代、大阪・和歌山間の直通運転を開始していたのに遅れること20年あまり。
後発の「阪和電鉄」が前年の部分開業を経て、大阪・和歌山間を全通させたのは、1930(昭和5)年6月のことでした。


古くからの、街道沿いの街々を縫うようにして走る南海に対して、山側の人口希薄な地域を、極力直線で、超高速運行を目指した阪和。

対象的な両社、運営主体が替わった現在でも続く、激しい旅客シェア争いがはじまります。出典①。


そんな当時、阪和が大阪・和歌山間の全通を果たした1930(昭和5)年に発行されたという、時刻表を兼ねた、阪和電鉄を紹介するリーフレットが展示されていました。

「和歌山」が先頭に来ているので、おそらくは、阪和があらたにやって来た和歌山の地で、広く配布されたもののようです。


それでは、この「阪和電鉄のサービス」の内容を探ってみたいと思います。


新線の為、ただいまは暇(いとま)な運転をして、大阪まで65分で参ります。
尚遠からず時間短縮の予定であります…

当時の最速列車は「急行」。
「阪和東和歌山(→JR和歌山)〜阪和天王寺(→JR天王寺)間」を、途中「鳳(おおとり、堺市西区)」のみに停車、65分で結びました。

ただ、記載にあるように、新線のために路盤が固まるまでは、最大の目的としていた「超高速運転」は出来ずでした。それでも、現在の「紀州路快速」とそう変わらない所要時間です。


特筆されるのは、先行して営業している南海の特急電車と、阪和の急行の所要時間がほぼ同じだったということでしょうか。
大阪・和歌山双方で、両社のターミナル駅の場所が多少異なるとはいえ、阪和はまだスピードを控えての営業開始なのにも関わらず…です。

さらに阪和は、早くも翌年には大規模なスピードアップを実現させ、所要時間をじりじりと短縮して行きます。これは後日項で。


大阪天王寺終点は市電あべの橋交差点にあり、市電、市バス、会社バス等の始発点になって居りますので、市内各方面への直通車に、楽に座れて乗換の不便なく、交通上最も便利な所でございます…

「あべのハルカス」と「JR天王寺駅」。
いまも昔も「天王寺・あべの橋」は市内随一のターミナルです。


阪和開業当時、昭和初期の大阪市内鉄道網。
天王寺、あべの橋周辺はこの頃すでに、鉄道省線(→国鉄→JR)、大阪鉄道(→近鉄南大阪線)が発着する、市内南部の一大ターミナル。

この当時、市内中心部には市電が縦横に走り、環状線はまだ「城東線」「西成線」と呼ばれる変形様。「伊丹空港」ではなく「木津川飛行場」が大阪の空の玄関口だった。出典②。


ところで、阪和電気鉄道が自前で設けた「天王寺駅」の場所はというと、駅ビルの北側になるあたり。「ハルカス」とは真反対の、天王寺公園・動物園に最も近いところに当たります。


くだんの「阪和天王寺駅」を写した、貴重なショットも展示にはありました!
モルタル造りの立派なもので、その二階には電鉄直営の「阪和食堂」が入居し、人気を博していたそうです。
場所は、先ほど示したところと同一です。

しかし、駅舎まわりに隙間なく掲げられた、たくさんの観光地案内の、色とりどりなこと!
実に興味をそそられるものですが、阪和は、沿線の開発にも大変な力を注いでいました。
こちらもまた後日項に。
掘り下げたい、取り上げたいものばかりです。


グーグル地図より。

ところで、「阪和電気鉄道」の後進に当たる「JR阪和線 天王寺駅」の場所というのは、赤いで囲ったところ。先ほどの駅ビルと阪和時代の駅舎の真後ろに、ホームと線路はあります。


ではここからは、現地の様子をご覧頂きます。

中央改札を入ったところですが、右の階段・エスカレーターを降りたところが「大阪環状線」内回り(鶴橋・京橋・大阪方面)ホーム。左にそのまま進むと「阪和線」ホームがあります。
同じ駅ではあるものの、この場所を境にして、
雰囲気がなんとなく異なります。


阪和線ホームの先端付近にやって来ました。


ここから、南側を向いてみますと…
ホームの下には、環状線の電車が停まっているのがわかります。半地下の場所です。


この角度からですと、半地下がわかりやすいでしょうか。駅の西側で、地平の「谷町筋(たにまちすじ)」の下を線路はくぐっています。


天王寺には「阪和電気鉄道」が乗り入れる30年以上前、明治の半ば過ぎには、すでに現在の「大阪環状線」や「大和路線(関西本線)」が開業しており、昭和初期に阪和が開業した際には、すでにそれらは国有化されていました。



阪和線のホームだけがこのように「環状線」や「大和路線」と同じ高さレベルに設けられず、
さらに、それらとの直通運転も加味されていない行き止まり式の配線になっているのは、まさに「阪和線が国有鉄道としてではなく、独立した私鉄として建設された証」だと言えます。



独特の雰囲気を放つ、阪和電鉄時代そのままの、無骨ながら明るさのある広いドーム屋根。
「国鉄→JR線」でありながら、令和になったいまでも、それとは違う独特な雰囲気を沿線のあちこちに漂わせる「阪和線」。

それはやはり、この路線の出自が「昭和初期のモダニズム感と、強い個性を持って誕生した私鉄だったからだろう」ということを、この駅に降り立ち、この光景を見る度、わたしはつくづく感じます。


ともかく、鉄道趣味的に見ると、この「天王寺駅」は大変興味深いものがあります。

地上行き止まり式の阪和線の各ホームの真上を貫き、南側にある半地下の環状線・大和路線とを結ぶ連絡通路、通称「阪和通路」
ただし、ラッシュ時間帯でも行き交う人はさほど多くない。


さらに平成に入ってからは、その行き止まり式ホームに入る手前に、阪和線と環状線・大和路線との連絡線を設置、「関空・紀州路快速」が環状線に、「特急はるか・くろしお」が新大阪・京都へと直通出来るようになりました。

(出典①「カラーブックス日本の私鉄⑨南海」南海電気鉄道車両部・井上広和共著 保育社刊 昭和56年初版)
(出典②「阪和電鉄 沿線御案内」阪和電気鉄道株式会社 昭和10年または11年発行)

次回に続きます。
今日はこんなところです。