自粛要請が解除になったらいちばん行きたかった大阪城を散策する その18 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

府内への自粛要請が解除されたら、いちばん行きたかった大阪城を先日、散策した際の様子をお送りしています。

 

 

館内の6階、「大坂の陣」についての展示を拝見しているところです。

「大坂冬の陣(1614)」で激しい戦いを繰り広げた豊臣軍と徳川軍。

消耗戦になったこの戦いは、いったん和睦(講和)が結ばれるに至りました。

 

 

 

翌年(1615年)、再び両者は戦いを交えることになります。

「大坂夏の陣」ですが、なんと本丸の周り以外の堀がすべて埋められて「裸城」になってしまっています。

 

前回の記事でも触れましたが、前年の「冬の陣」での講和条件には、

 

「本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めること」

 

という一文があったのですが、豊臣家側としては、この条文をあくまで「儀礼上の条件」として捉えていた節があったようで、まさか本丸以外すべての堀を埋められるとは思ってもいなかったようです。当然、堀のない裸城というのは、防御力がないに等しいくらいに低下してしまいます。

 

 

 

 

そのような中、この「夏の陣」では、先日の記事でも取り上げました「真田幸村公」が西軍の主役に。一時は家康の本陣に迫る勢いだったと言います。

 

 

それに対し、徳川幕府側は「松平忠直公(家康公の孫に当たる)」が、豊臣家側の武将を多数討ち取る武功を挙げました。

 

 

「夏の陣」では、この城の近辺だけではなく、府内各地で豊臣家側、徳川幕府側が交戦したということが知られています。

 

 

出典「新詳日本史図説」(浜島書店編集部編・刊行 1991年11月)より。

オランダの宣教師・モンタヌスの著書に描かれた「初代大坂城」。

 

劣勢になった豊臣家側は城に火を放ち、秀頼・淀殿が城内で自刃。

豊臣家は滅亡し、徳川側の勝利に終わります。

これが、一度目の「落城」でした。


以後、大坂の城は徳川幕府によって新築に近いまでに改築され、二代目天守閣が造られるに至りました。

 

 

と、ここまで述べて来まして、ふと秀吉公の辞世の句を思い出しました。

 

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花(なにわ)のことも 夢のまた夢」… 

(意訳:わたしの人生は、雨の露のように落ちて、露のように消えて行くようだった。この大坂で最後に遂げた成功も、思えば夢のようなものだった、といったところでしょうか)。


一農民の身から信長公に仕え、苦労して出世し、天下一の実力者として立身出世を遂げた。まさに、夢を見ているかのような。

その人となりから、この句には、秀吉公の波乱万丈な人生が凝縮されているように感じます。

 

 

秀吉公が没したのは1598(慶長3)年。

配下の「五大老(ごだいろう。徳川家康・宇喜多秀家・前田利家・上杉景勝・毛利輝元。豊臣政権の末期に執務を担った主大名)」を枕元にして逝ったということはよく知られています。


ですが、後継者としてはまだ幼い秀頼を残し、自身に従っている立場だとはいえ「家康」という実力者が、ひょっとしたら自分に取って替わる存在になるのではないか…などと思っていたのではないか。

 

辞世の句の意味合いや、この展示を拝見したりしていますと、勝手にそのようなことを想像してしまいます。出典同。

 

 

ありきたりな言い方ですが、歴史というのは、実に奥深いもので、さらに連綿と続いているものなのだなと、あらためて感じます。出典同。

 

 

さて、いよいよ天守閣のてっぺん、展望台のある8階にたどり着きました!

どのような景色が見られるのか楽しみです。

 

次回に続きます。

今日はこんなところです。